刀狩と一揆について


序文
 
日本の歴史上、領国などの狭い範囲の刀狩を除外すると、全国的な刀狩は2回あった。

最初は1588年に行われた秀吉の刀狩である。2回目は  1945年にGHQによって行われている。
人によっては、1876年(明治9年3月)の廃刀令(帯刀禁止令)を入れる向きもあるが、これは帯刀を禁止したのみで、所有を禁止したわけではない。

それにこの帯刀禁止令も厳格なものではなかったようだ。既に亡くなった年寄りから聞いた話だが、昭和の初め頃その人が未だ10代の頃のことである。廃刀令の影響で刀の価格が暴落した折りに、刀屋の店先で薪のように積み重ねられて売っていた安刀を小遣いで買いこんだ。腰に差して家に帰る途中交番の前を通ったが警官は何の咎めもしなかったとのことだった。

この2つの刀狩のうち、秀吉の行った刀狩においては、文化財としての名刀の損耗は無かった筈である。そもそも百姓の家に天下に名だたる名刀などあるはずが無く、もし万一有っても支配者側でより分けて保存したはずだからである。

百姓や下級武士などが持っている刀や脇差は、出来の悪い実用刀が殆どであり、いわば消耗品である。
合戦では槍や弓矢それに火縄銃が主力武器だったが、刀が白兵戦で使われると、一回で刃こぼれしたり切っ先が折れたりする。

現代に名刀が現存しているのは、名刀は主として大名や上級武士が持っており、最前線での争闘に使われなかったことにもよるが、そもそも名刀は家宝として秘蔵されることが普通で、或いは論功行賞の贈答品や社寺へ寄進される例が多かった。

新撰組が池田屋に切り込んだときの刀の損耗状態を、近藤勇が江戸の養父 近藤周斎に宛てた書状の中で述べている。それによると永倉新八の刀は折れ、沖田総司の切先は折れ、藤堂平助の刀は刃こぼれがひどく、倅周平は槍を切り折られたと書き送っている。なお近藤勇自身の刀は虎徹ゆえ無事に御座候・・・とも書かれているが、近藤勇の虎徹が本物かどうかは疑わしい。戦闘時間は1時間余とされている。

それに比してGHQによる刀狩は、敗戦による人心の動揺もあり、旧大名などが持っていた名刀が悲惨な状況に陥った。文化財としての日本刀の歴史上で最悪の出来事ではあった。
GHQによる刀狩については、稿を改めて述べることにして、ここでは秀吉の刀狩と一揆についての関係を見ることにする。


一揆とその変遷


組織的な一揆が始まったのは、室町時代初期の応永25年 (1418)に近江一帯の馬借数千人が訴状を持って京に乱入したことが始まりである。

馬借とは主に運輸業を営む集団で、その仕事の性質上、地域を越えて集団性を持っており、しかも機動性に富んでいた。

馬借一揆はその後、室町時代を通じて毎年のように勃発した土一揆(つちいっき)の先鞭をなすものであった。土一揆の初期である正長元年(1428)の一揆では馬借が先導している。


そして その後の一揆における指導者は馬借にかわり、地侍層が主導するようになった。
室町時代においては、農民と地侍などの下級武士との区別が截然としていなかった。馬借にかわり地侍が指導者となって農民と共に集団性と機動性を体得し、彼ら自身による一揆へと進んでいった。


一揆阻止のための秀吉の政策


豊臣秀吉は1588年(天正16年7月)全国に「刀狩り令」を出している。
刀狩の名目は方広寺大仏殿を造営する際の釘・かすがいに使用するためとしたが、農民から武器を奪うことで、一揆を未然に防止することにあった。

更に 1591年(天正19年) 秀吉は定書により武士 町人 百姓の身分を厳しく分けて身分の固定を図った 。そして武士を村落から引き離して城下に集中させた。

つまり農民は武器を奪われ、そのうえ一揆の組織的原動力となっていた在地武士との連合が遊離させられて、以後一揆の蜂起は困難な状況になった。

農民としての身分を固定化する政策は、続く徳川政権へ継承され、幕藩体制を支えてゆくことになる。


刀狩以降の一揆について  


検地や刀狩によって、土豪と呼ばれる武士が農民化した人々の特権的地位が脅かされることになった。
それゆえ土豪は農民たちを扇動して支配権力に反抗した。土豪一揆といわれるものである。

天正18年(1590)に羽前庄内、翌年に岩代の伊達信夫両郡、慶長8年(1603)には土佐東山郷下津野に土豪一揆が発生している。
これらは農民も加わっていたとはいえ、本来の農民一揆ではなく規模も小さくて、いずれも藩の武力によって鎮圧されている。

本来の農民による反抗の形態は、末端の役人に対する愁訴とか或いは逃散(ちょうさん)という極めて消極的な形にとどまった。

逃散とは土地を捨てて逃亡することである。慶長8年(1603)信州真田領、慶長15年には佐久郡、明暦元年(1655)には和泉の熊取村などで年貢の重さに耐えかねて農民が逃亡している。これは反抗というより万策尽きて逃げ出したということである。

唯一の例外は、寛永14年(1637)の島原天草の乱である。これは宗教一揆と見られているが必ずしもそうではなく、領主松倉重治と寺沢堅高の虐政に対する反抗であった。一揆の集団における結束に、宗教が大きな力を与えたということが実情である。


越訴(おっそ)



寛文から正徳(1661~1715)に至って、越訴が主流になってゆく。
越訴とは末端の役人を通さずに、藩主や幕府に直訴することである。これは幕府や各藩で厳しく禁止されており、実行した農民代表は死罪または重い刑を科せられ、しかもそれは家族にまで及んだ。
主な例は以下のとおりである。
承応元年(1652)若狭の松木荘左衛門
承応2年(1653)下総の佐倉惣五郎
天和元年(1681)沼田藩の磔茂左衛門
貞享3年(1686)松本藩の加助騒動
正徳元年(1771)安房北条藩の角左衛門、長次郎、五左衛門 
 
実行者はいずれも死罪になった。これらの多くは、名主、庄屋、またはそれに近い身分の者たちであった。


名主 庄屋階級の変化

享保から宝暦年間(1716~1763)になると、藩は庄屋、名主層に名字帯刀を許したりして巧みに懐柔し、年貢収納の手先にした。庄屋、名主達も百姓とは違った特権階級になったように思い込み、居丈高に農民から年貢を取り立て、その一部を横領したりした。

もともとは同属であった者が、支配者側から特権を与えられると冷酷に変身することは、フランクルの「夜と霧」の中でも描かれている。すべての人間がそうなるわけではないが、人間の本質の一面である。

そのような状況の中で、農民は体制側になってしまった庄屋、名主達に対して信頼を失い、農民自身の中から指導者を選び、集団の力を結集して惣百姓一揆或いは全藩一揆と呼ばれる行動に出ることになった。

元文3年(1738)9月に磐城の平藩で起きた一揆は全藩一揆の典型である。
更に宝暦4年(1754)筑後久留米藩でも全藩一揆が発生している。
しかしいずれも支配者側の巧みな詐術によって解散させられ、農民は処罰されるという結果に終わっている。


藩を越えた惣百姓一揆


享保から明和にかけて(1716~1771)、地主、庄屋層は産業や商業への活動を進め、更なる経済的特権階級となり高利貸などを営んだりした。

農民は幕藩に反抗するのみではなく、地主、庄屋層にも対抗するために藩領を越えた広範囲の農民や都市下層民が団結して一揆を起こすようになった。

明和元年(1764)における「伝馬騒動」といわれる一揆は、中山道沿いの幕領と藩領に渡った広範囲の一揆である。手にした武器は、竹やり、鋤、鍬、鎌、棒、投石などであった。総参加者は20万人といわれる。

伝馬騒動の特異性は、村役人も参加していたことである。幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。そして幕府側は農民に対する助郷の追加負担を取り下げた。一揆が江戸にまで波及することを恐れたと思われる。

武器は貧弱でも集団は力になることを農民たちは知ったのである。
伝馬騒動においては農民側の主張が通ったので、一揆は一応成功した印象はあるが根本的解決にはなっていない。


刀狩による武器収奪と一揆への影響



江戸幕府は百姓町人が脇差以外の刀を持つことや、武芸の稽古をすることを禁じる触れを何回か出している。

慶安元年(1648)町人が帯刀する事を禁じている。

慶安3年(1650)猟師以外の関東在住農民が鉄砲を所有することを禁じている。

享和元年(1801)幕領、私領を問わず百姓町人の帯刀を禁じている。これは先の慶安元年の禁令が行き届かなかったか、守られなかったため再度出したものと考えられる。もっともこの時は、百姓町人が苗字を名乗ることも併せて禁じている。

文化2年(1805)百姓が武芸稽古をすることを禁じている。

文化9年(1826)無宿者、百姓、町人が長脇差を帯刀することを禁じている。百姓、町人が帯刀することはかねてから禁じられていたが、この年に長脇差も禁じられた。

天保14年(1843)町人の武芸稽古を禁止した。しかしこの禁令も
これで2回目であるがこれまで遵守されなかったため再度出したと考えられる。

以上に記したように、江戸幕府は百姓町人の反乱を防ぐために何回も禁令をだして、その萌芽を摘み取るべく狡知をめぐらしていた。

そのためばかりでは無いが、江戸時代の一揆は殆ど成功していない。その理由はいくつかある。刀狩による武器の収奪で武力をそがれたとするのは早計である。

秀吉の刀狩と、それに続く徳川幕府による帯刀禁止令は、一揆蜂起の抑止に少しは効果があったが、支配階級に比べて圧倒的に農民や都市下層民が多いわけであり、彼等が何万から数十万人も団結すれば、大鎌や竹やり、鍬や棒切れ、投石などといった武器でも対抗することができた。

一つには支配者側を圧倒して証文を書かせるところまで進展させても、純朴な農民は支配者側の巧みな詐術にだまされて解散し、そのあと個々に孤立した主導者が捕縛され斬首された。当然のように証文の書付は反故にされた。

農民の要求は目先の年貢軽減と借金棒引きなどの徳政令だった。社会体制を根本から変えなければ、これでは解決になりはしない。頻繁に一揆が起こったが、永久に繰り返すのみである。

農民の願いはコツコツと地道に働いて日々の充足を得るということで、誠にささやかなものだった。人間には地道に働いてつつましく生きることに喜びを見出す者と、弱い者を奴隷化し収奪して遊んで暮らすことを希求する二つのタイプがあるようだ。

農民や都市下層民に封建体制を変革する思想などなかった。そして一揆の主導者はいても、社会体制を変革するための戦略を授ける指導者はいなかった。農民は生活者であり、目先の苦難が除かれれば、日々の仕事に専心しなければならなかったし、そうすることで満足していた。

民衆は武力を持った権力に対して、盲目的に隷従する習性が骨身に染みついていたようである。
乍恐以書付奉願上候・・・・恐れながら書き付けを以て願い上げ奉りそうろう」・・・
これは百姓の代表などが権力者に出す請願状の定型文冒頭である。その定型冒頭文の古文書の最後に以下のような文言が続く。
これは安永6年に武州多摩郡中野村(現在の東京都中野区)の名主百姓が後任に関して幕府役人の伊奈半左衛門に請願した古文書である。

「百姓共壱人茂不洩連印ヲ以奉願上候  何卒御慈悲ヲ以岩松儀名主役被為仰付被為下置候ハゝ 偏ニ難有仕合ニ奉存候 以上]

(百姓ども壱人も洩らさず連印を以て願い上げ奉りそうろう、なにとぞ御慈悲を以て岩松儀名主役仰せつかせられ下し置かせられそうらわば、ひとえに有り難きしあわせに存じ奉りそうろう 以上)


収奪されたあげくに卑屈な姿勢をとった百姓達の心の一端が文言に見て取れる。

つまり 一揆を起こすことによって社会体制を変えられなかった要因は、根本的改革を見据えた指導者がいなかったことにある。

いつの世でも、企画立案者が実行者を兼ねるという例は少ない。
衆望を担って大衆を統率する能力と、戦略や行動の指針を考え出す軍師としての能力を兼ね備えている例は少ないということである。怜悧は必ずしも大衆に好まれはしないが故に統率者にはなり難い。

日本の歴史において、社会構造が大きく変わった節目が2回ある。幕末と太平洋戦争の敗北時である。いずれも強い外圧によって変わらざるを得なかった。
我々日本人は、思想を醸成して自ら体制を変えたことは無かった。

そもそも日本社会は、西洋の契約の社会と異なり信頼の社会であり、それは身内社会とも換言できるが、その特徴は自分の属する集団社会内における良好な人間関係の維持に重点が置かれ、異質な物に排他的であった。

その結果、狭い土地と人間関係において仲間はずれを恐れる規範的同調圧力が強くなり、そのうえ多数意見が正しいとする情報的同調傾向も否定できないことになる。これは現代の地方社会において、或いは会社内の人間関係においてもその傾向が見られる。

これらが相俟って批判や対決精神が生まれず、改革という発想は出現しなかった。


統治体制への考察


封建制度が人民にとって不利益であることは論を俟たない。
しかし特定の思想を根拠に国家統治体制の構築を目指すことが危ういことは、20世紀における国内外の歴史が饒舌に示している。

欠点の無い国家統治体制は理論的には有りうる。しかしそれをヒトという生き物が作る集団社会に適用すると、理論とは別の思いもかけぬ欠陥が現出する。

要するに 次善の体制は考えられても、欠陥の全く無い最善の統治体制など現実には無い。

そのことは既に今から2100年も昔に、古代ギリシャのポリュビオス(204BC?~125BC?)がその著書「歴史」の中で政体循環論として述べている。

アメリカにおいて国民がトランプを大統領に選んだのは、自由を放任した結果、貧富の差が拡大したことによる政治への懐疑からである。

一人の有能で高潔な人物に独裁権力を与えて統治を任せる体制は、机上の理論としては最上とも考えられる。いわゆる哲人政治であるが、しかしそれは反面において個人の自由が制限され、そのうえ為政者の権力行使に抑制が効かなくなる恐れを胚胎している。


古代ギリシャのプラトン(BC427~BC347)は哲人政治を理想としたが、その体制にふさわしい理想的指導者の出現は難しいので、次善として民主制をあげている。

しかし哲人政治が歴史上うまく機能した数少ない例もある。古代ローマにおけるルキウス クインクテゥス キンキナトウスの例である。彼は紀元前460年に独裁官に任命され、戦争によってもたらされるローマの災禍を未然に防いだ後、自ら辞任して元の百姓に戻った。

しかしこの制度も結局破綻している。
キンキナトウスから400年後の同じくローマにおいて、ユリウス カエサルは独裁官に任命された後、自身が持つ権力を行使して独裁官退任を拒み、自らを終身独裁官に任命したために暗殺された。

絶対権力者は通常自らの地位を更に堅固にし権益の拡大を図るのが常だが、世界史の中では稀有な例外もある。それはブータン王国の雷龍王3世(1929~1972)とその息子の雷龍王4世である。
彼らは農奴を解放し国会を設立して成文憲法制定へと導き、更に行政権を手放して世襲の独裁権力者自らが率先して民主化を推し進めた。しかしこのような特殊な事例を現実に期待しても空しいだけである。

統治体制において理想論を言えば、「形式的法治主義」で起こり得る欠陥を是正した制度であるところの、いわゆる「法の支配」制度を確保しつつ国家を統治して行く中で、不都合が生じたなら、その部分を速やかに改正できる統治体制こそが望ましいと考えられる。

形式的法治主義とは単に法治主義とも言うが、議会制定法によって行政が行われることを要請するに過ぎない。それゆえ悪法も法として、独裁がいわば合法的手段で築かれた歴史がある。

その一方で「法の支配」とは、実質的法治主義とも言われる。
法の支配においては、議会の立法権による法の内容に対して、国民主権、平和主義、基本的人権を保障した高次の法である憲法の内容との適合性が要求される。

つまり法の支配の原理を支える核心理念は、憲法の実質的最高性である。
そしてそれを支える基幹は、国家行為に対して憲法の内容との適合性を判定する機関である司法の優位と公正が重要となる。

しかし国家という巨大組織の運営方針を軽捷にかえてゆくことは極めて困難である。
なぜなら客観的に見ていかに良い国策でも、膨大な人数の国民の間には多様な主義主張と利害が錯綜として絡み合っており、必ず反対意見が出てその遂行を困難にするからである。

民主主義による統治下において、政治的リーダーが膨大な数の国民を簡単確実に束ねられる方法は、未だ見い出されていない。

現在の日本は民主制が爛熟してポピュリズムが台頭し、衆愚政治に変容する過程にある。国民の教育水準が高ければ、それを抑止できるというものではない。なぜなら大衆を集団行動に駆り立てる源動力は、知恵ではなく感情だからである。

いつの時代でも冷静で後世から見ると正しい判断を下す少数の人々が存在する。しかしそのような人々も結局怒涛のような多数の民衆の意見に押し流され、飲み込まれて傍観するだけを強いられることになる。

正否は必ずしも衆の多寡で決まるものではない。

現在の日本の国民生活においては終身雇用が崩壊し、低収入の非正規労働者が全労働者の4割近くを占めるに至っている。
そのうえ人口の高齢化に伴い、現役世代における社会経費の負担が増大し、貧困層が増えて将来に不安を抱いている国民が多くなっている。

現代の日本社会は、あたかも社会階層の固定化の方向に進んでいるようにも見える。

国民は閉塞感を感じており、カリスマ的指導者の登場を待望している段階にある。おそらく遠くない将来にそのような者が現れれば雪崩を打って支持することになるであろう。

しかしポピュリズムの台頭と、それによる大衆の支持を養分にしてバブル的人気によって急成長するカリスマ的指導者とは実際のところデマゴーグ (demagogue大衆扇動者) であり、歴史を振り返っても民主政治を破壊するものである。我々は心しなければならない。 
 
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