新刀期における地鉄の色について



1 はじめに

新刀期においては、以下に述べるように製鉄が一定地域に集約されて専門化し、しかも海上輸送が発達したことで、特定産地の玉鋼が全国に流通するようになった。

ここで問題にしたいのは、同じ産地の玉鋼を用いても、刀が作られた地方ごとで地鉄の色が異なるという点である。
この点について考察を加えてみたい。




2 製鉄法の変遷と産地の集約


日本における製鉄は古代・中世期には野たたらといわれる形式で作られ、炉は小型で構造も簡単であったため長期間の使用に耐えられず、砂鉄と燃料を求めて移動していた。

陸上交通および海上交通も発達しておらず、地方毎に小規模なたたらを営んでいた。

それゆえ地方独自の地域性のある地金を用いたと考えられ、その結果地方ごとに地鉄が固有の色合いを呈したとしても不思議ではない。

室町時代末期から江戸時代初期にかけて、たたら製鉄は野たたらから高殿たたらへの発展した。

炉が大型化し17世紀末には天秤ふいごに進化して,生産性・品質が著しく向上した。

更に高殿たたらを中心に,選鉱・精錬・鍛錬の3部門に分化し,社会的分業を形成して専門化が進み、生産量は飛躍的に増大した。

そもそもたたら製鉄には必要不可欠な三要素があった。
1 良質な砂鉄
2 銑穴流(かんなながし)という一種の比重選鉱法を導入するための水流
3 膨大な量の木炭の供給を満たすための山林

以上の三要素を満たす適地としては、備後(広島)、備中・備前・美作(岡山県)、播磨(兵庫県)など中国山地が該当した。

一方江戸時代を通じて内航定期航路の「廻船」が発達し、太平洋岸を通って大阪~江戸間を結んだ菱垣廻船や樽廻船、日本海・瀬戸内海経由で北海道や日本海側の港と大阪を結んだ北前船などにより、商人たちは運賃を支払えば、どこへでも品物を運ぶことができるようになった。

鎌倉・室町時代において日本の製鉄遺跡は東北地方、関東地方でも見つかっているが、以上述べたように、海上輸送の発達により、江戸時代になると、製鉄産地がほぼ中国山地に集約されるようになった。

その結果 地方でそれぞれ独自に小規模な野だたらを営んで玉鋼を得るより、専門産地から入手したほうが品質が安定していて、しかも良質で手間がかからないことになったのである。

それゆえ全国的に、様々な流派の刀匠が使う玉鋼はほぼ均一化したといっても過言ではない。



3 新刀期において地域による刀の地鉄の色の違い

色を言葉に置き換えるのは甚だ困難で、主観的な表現になることをご了解いただきたい。

新刀に限らず古刀期から、北陸道の越前、越中、加賀などで作られた刀の地鉄は、黒味を帯びていることで良く知られている。その黒は冷え冷えとした色合いで、渋いという言い方もできるが、血の通った暖かい印象ではない。

山城の堀川国広の鉄色は、簡単に言えば、末関の地鉄から白気を取り除いた色で、少し赤みを帯びた灰色である。著名な刀工の割には良い色ではない。

大阪新刀は青みを帯びた黒である。北陸物に比べて温かみのある色合いである。さらに興味ある事実がある。それは親国貞で、京で国広門下にいたときは、国広の地鉄と同じ色合いであったが、大阪に移住したのちは他の大阪新刀と同様な色合いに変化したことである。

肥前について言えば、忠吉の嫡流はしろがね色とも言うべき独特の色合いを呈している。しかし本家筋から離れ傍流になると黒味を帯びてくる。そして傍流になるほど黒味は増す。

江戸新刀の興里は、末関の色あいに近く、世に喧伝されているほど冴えている感じはしない。但し刃文は抜群に冴えている。




4 結論

地鉄の色合いは、素材に大きく依拠することで間違いないが、それだけで決定されるわけではない。鍛える過程での炭素含有量の変化と、それになんといっても焼き入れ工程に大きく依存する。

焼入れすると刃文の部分だけに焼きが入るわけではなく、地鉄にも焼きが入る。相対的に刃文のほうが焼きが強く入っているだけである。地の部分に焼きが入らないと、ハバキ元に水影が立つ場合に見られるように、白く弱い印象になる。

現在活躍している刀匠の方々は、日刀保の玉鋼を使用していると拝察する。同じ材料を使って作刀しているわけだが、それゆえか江戸時代ほどの顕著な色合いの相違は無い。

しかしそれでも微妙な色の違いはあり、中には青みを帯びた地鉄の刀を作る刀鍛冶もいる。刀匠個人の技術的個性による結果であると言って差し支えあるまい。

江戸時代ほどの色合いの違いが無いのは、人的交流が昔に比べて比較にならないほど盛んになったことが、技術交流につながっていると考えられる。むろん技術の全てを他人に開陳しているはずも無いだろうから、多少の違いとなって現れるのであろう。

江戸時代の地域的違いは、同一地域には流派の主流とその末葉が定住し、牢固として一派の技術の伝承を図っていた為と考えられる。

肥前においては例外が見られるが、脇肥前が本家と違うのは、色合いばかりではない。鑢目を筋違いに切るし、作風上でも本家には無い焼き出しを焼くこともあり、そのようなことから推測するに、本家に対して隷属的な支配下にあったわけではないようだ。

因みに同じ鍛冶場にいる師匠と弟子では、きわめて封建的な隷属下にあり、師匠とは違ったやり方など許されることは無い。

親国貞について言えば、その事実上の師匠は国涛であったようだが 、いずれにしても京の国広の支配下から離れて大阪に行き、そこでの世間からの求めに応じて華やかな作風に変化していった結果、焼入れ工程などに以前とは微妙な違いが生じて、それが色合いの変化になったと考えられる。

因みに現代では精錬技術が発達し、不純物をほとんど含まない電解鉄という名の鉄がある。
それを使って作られた刀剣を何本か研いだが、鉄色が黒みを帯びている。そしてどういうわけか肌目が乾いて僅かにバサついている。

黒味を帯びるのは良いとしても、鍛え肌が乾いてバサつくのは感心しない。
電解鉄と言う純鉄に近い材料を使うより、たたら製鉄で作られた玉鋼を使ったほうが肌目に潤いがあるのは不思議と言わざるを得ない。
 
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