刀剣の時間的損耗限界




刀剣が乱闘に使われた場合には損耗が激しく、1回で廃棄処分になることが多いことは池田屋事件における近藤勇の書簡に書かれている。

使うことなしに保管した場合、どの程度の期間にわたって刀が残存するかを考えてみたい。

現存している刀剣で古いものは圧倒的に室町末期が多い。古刀の室町時代における鑑定上の節目を新しい順に示すと以下のようになる。

天正~文禄 1573~1596 (いわゆる古刀末期で末古刀と称される)

永正~大永 1504~1527

永享  1429~1440

応永 1394 ~1427


備前物を例にとると、室町時代は末備前、永正備前、永享備前、応永備前に区分され、それぞれ特徴がある。
愛刀家そして旧名家、寺社は別にして、民間に伝わっている古刀は末古刀が多い 。

旧家の農家に現存している脇差は江戸時代の出来の悪いものが多いが、末古刀も珍しくない。それらは錆びていることが多く、大事な物という認識があって伝わってきたと考えられるが適切な保存方法を知らなかったようだ。
但し江戸幕府の禁令により、ごく一部の例外を除いて農家に刀は伝わっていない。

古刀の脇差が多く遺っている理由は、室町時代の戦乱の中にあっても脇差が使われることが少なかった為に、実戦で消耗されることが無かったと考えられる。
いっぽう室町末期の刀は脇差より少ないが珍しいものではない。

今から400年以上昔の遺物など、一般家庭では紙一枚でさえ残っていないが、刀剣の世界ではごく普通に現存している。手入れ法を知らないまでも大事にされ伝えられてきたようである。

しかし大永(1521~1527)をさかのぼると刀剣は俄に少なくなる。そして現存しているそれらの真正品はほぼ名品が多い。数少ない名工の数倍も刀鍛冶が居たはずであるが、下作鍛冶の作品は殆ど見ない。
つまり当時の人々自身が名刀と認識し、使わずに大事に保存してきたと考えられる。

そして室町初期の応永(1394~1427)以前に作られた刀剣が、一般の民家から新たに発見されることは極めて珍しい。

以上を鑑みるに、使用せずそして手入れの専門的知識を持たずに保管した場合、刀の寿命は500年位が目安と考えられる。 むろん劣悪な環境下ではもっと短くなる。

古刀は はばき下のいわゆる研ぎ溜まりの部分が、なかごの厚みに比べて極端に薄くなっている場合が多く見られ、これは研ぎ減りしてそのような結果になったわけである。
研ぎ減りして痩せ細り、波紋が浅くなるどころか焼き刃が消える場合もあり、その結果廃棄されることになる。

現存している応永以前の名刀は、しかるべき名門の武家や貴族あるいは寺社に伝わってきており、それらの権力者は刀の専門職を雇っていたはずであり、手入れが行き届いて経年に伴う損耗がすくなかったと考えられる。

そもそもそれらの名刀は、戦功に対する恩賞として下賜されるか、贈答あるいは寺社への寄進として用いられ、実践で使用される例がほとんど無かった筈である。
落城する際にも、石垣から吊り下げて敵方へ名刀を渡したとする記録もある。

封建社会では身分の違いによって礼儀のみならず日常生活の端々に至るまで細かく規制されており、たとえば最前線の戦闘要員である足軽や雑兵が名刀を所持していることはない。

保存法に関する一考察

保存法は通常白鞘に納めて保管するが、最善な方法とは言えない。
鞘は狭い空間に刀を差し込むために、どこかで朴の木と刀が接触することは避けられない。
すると刀に塗った油が接触した朴の木に吸収され、その部分の油が乾いて錆を生じる事になる。それを防ぐには頻繁に油を塗り重ねなければならない。 特に新しく白鞘を新調した際には留意する必要がある。

刀が白鞘の木に接触しないように大きな空間を空け、立てて保存するのも一案だが、その場合には刀が白鞘の中でガタガタと動き、愛刀家が納得するとは思えない。

その点から言えば、錆が来ていない古鞘は木に油が染み込んでおり比較的安心である。

最も良いと考えられる保存方法は、なかごで押さえて刀身が空中に浮くような仕掛けの木の箱を作り保管することである。 この方法の欠点は、かさばるので扱いが面倒になることである。

刀に塗る油については、いまでも椿油を使っている向きもあるようだが、現在は化学が発達しており優れた特性を持つ油が出てきている。

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