帯刀禁止令



明治9年(1876年)3月28日太政官布告38号で,大礼服着用の時および軍人・警察官の制服着用の時以外の帯刀を禁じた。
凶器を腰に帯び、大道を当然のごとく闊歩するさまは旧弊に過ぎ、文明開化の世にふさわしくないとの判断であった。

太政官布告38号
大禮服着用並ニ軍人及ビ警察官吏等制規アル服着用ノ節ヲ除クノ外 帯刀被禁候條此旨布告候事
但違犯ノ者ハ其刀可取上事



但し唐突に帯刀禁止令が出されたわけではない。「維新後大年表 妻木忠太著 村田書店 大正3年初版発行」を調べると、それ以前に以下の布達があったとの記述がある。

明治3年11月14日 「百姓、町人襠高袴、割羽織を着し若しくは長脇差を帯ぶるを禁ず」

明治3年12月24日 「農、工、商みだりに帯刀を禁ず」

これらから読み取れることは、大政奉還の結果江戸幕府が定めた禁令が無効になったとみて、士族以外の者で長脇差や刀を帯びる百姓、町人がいたことを示している。

その後 明治4年8月9日 太政官は「散髪、脱刀は勝手たるべし」との布達を出した。
いきなり帯刀禁止令を出さず、勝手たるべしとのいわば自主的判断を士族に委ね反応を窺ったのである。

この結果東京、京都、大阪等の都会に於いては概ね士族が廃刀の風俗に馴染んだのを見て明治9年(1876年)3月28日に帯刀禁止令に踏み切った経緯がある。
但し違反する者には刑罰を与えず、本来は付加刑である没収のみとした。

そもそも士族階級は維新によって身分と経済基盤を奪われて憤懣を抱いていたが、最終的に彼ら不平士族を暴発させる引き金になったものは帯刀禁止令だった。

士族が百姓町人と区別しうる表徴は大小を腰に帯びていると言う事実だったが、それを禁止されたのである。

その結果 明治9年(1876)10月24日 熊本 神風連の乱が起き、

更に同年10月27日 福岡県 秋月の乱、

そして同年10月28日 山口県 萩の前原一誠の乱へと繋がった。

東京、大阪、京都などの都会では概ね帯刀禁止令の趣旨が守られたが、地方では帯刀が禁止ならば手に持って歩くのは差し支えあるまいなどと言う者もあった。

江湖新報の明治9年9月30日の記事に、明治9年の廃刀令以後刀剣の価格が暴落したとある。しかし鹿児島県下では買い入れる者が多かったようで、逆に値上がりしていると書かれている。

そして朝野新聞 明治9年10月12日の投書欄には、鹿児島県では「刀研ぎも相応に繁盛」とある。

薩摩藩は江戸時代の鎖国において、更に国内で鎖国を布いている状況で、それは明治維新を経ても変わらなかった。

権力が維新政府に変わっても、薩摩は太政官の命令に服することは無く、それは同郷で太政官の権力者である大久保利通でもなすすべはなかった。まして県令の大山綱良ではどうにもならなかった。

鹿児島県の歳入は中央政府の金庫に入りたる事なし・・・と福沢諭吉が「丁丑公論」で述べているように、鹿児島県は維新政府の命令が届かない恰も独立国の様相を示していた。

それどころか明治6年征韓論で敗北し西郷隆盛が参議を辞職して鹿児島に戻った後、私学校生徒達は武器を蓄え維新政府を倒そうとする機運が見られた。薩摩に於いて刀剣の値が上がったのはそのような事情による。

その機運の帰結は明治10年2月の西南戦争勃発になるが、西南戦争が勃発した原因は帯刀禁止令ではない。

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