吉良と浅野内匠頭


赤穂義士


赤穂義士の討ち入り事件の経緯については謎の部分も多い。忠臣蔵、赤穂浪士、赤穂事件についての公文書の類はまったく残っていないからである。唯一の 資料が堀部武庸筆記である。

そこで将軍綱吉、浅野内匠頭、吉良上野介、松の廊下での事件の発生とその背景に関して改めて全体を概観してみることにする。


将軍綱吉について


5代将軍綱吉(1646~1709)は家光の4男として生まれた。
母親のお玉(桂昌院)は京都の八百屋の娘である。家光の長男である家綱が4代将軍となり、家綱が亡くなったとき次男、3男が既に亡くなっており、且つ家綱の遺言もあって綱吉は5代将軍になった。

家康の遺言により、愛知県岡崎市にある徳川菩提寺の大樹寺には歴代将軍の等身大の位牌が安置されている。それによると綱吉の身長は124cmしかなく所謂小人症であった。その身長は現代の小学校2年生の平均身長に該当する。小人症を発症した原因は不明である。なお父親である家光の身長は157cm、母親の桂昌院は147cmで江戸時代の男女の平均値だった。

綱吉は成人になっても母子密着が著しく、現代で言う所のマザコンであったとされている(篠田達明著 徳川将軍家15代のカルテ 新潮文庫87~88頁)。母親から見ればいつまで経っても綱吉の体格は子供のままであり、不憫な気持ちと相俟って手を離せなかったのは無理もない。

東京帝国大学医学部内科の入沢達吉教授は、明治36年発行の国家医学界雑誌189号に「徳川綱吉の精神状態に就いて」という論文を寄稿した。
それによると綱吉は変質者であり所謂憐獣狂と称するものの好適例で、一種の精神病者であったと断定している。

祈祷僧の隆光が吹き込んだことが端緒だが、悪法として名高い生類憐れみの令を出したのは綱吉である。

柳沢吉保は綱吉の心を読み取り、迎合して桂昌院に従一位という高位の位階を授かることを献言した。朝廷側は生前の武家の女性に従一位の例は、権力者の妻あるいは同待遇の女性ならあるが母親という例は無く渋った。

室町時代末期から江戸時代にかけて、武家の女性で生前に従一位を贈られたのは、天正16年(1588)に秀吉の正妻ねねと、そのあとは家康側室の阿茶局ぐらいである。徳川秀忠の正室である崇源院(江)は死後追贈されたものだった。しかしさまざまな働きかけの結果話がまとまった。

そのような経緯から綱吉は勅使の接待にとりわけ神経質になっていた。その勅使が江戸城を訪れ将軍との引見儀式が行われる日程の中で浅野内匠頭による刃傷事件が起こった。綱吉がかなり立腹したのは事実である。
なおこの刃傷事件の翌年に桂昌院は従一位を授けられている。


浅野内匠頭と刃傷事件

よく知られていることだが、元禄14年3月14日(1701年)に江戸城・松之大廊下で、赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた事件である。

ご法度である殿中(江戸城内)での刃傷沙汰を起こし、その罪によって浅野内匠頭は即日切腹を命じられ、その後 藩は取り潰しとなった。

それを原因として元禄15年(1702年)12月14日未明に家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入って吉良を討ち果たし恨みを晴らした。


刃傷事件の原因

浅野内匠頭は釈明する充分な機会を与えられずに即日切腹を命じられ、吉良義央は「身に覚えがない」と主張したため、事件の原因は不明である。

私の若い頃昭和の時代には年末になると、この事件は芝居や映画として毎年興行が催された。それらに共通している刃傷に至った原因は、吉良がパワハラによる賄賂を暗に要求したが、それに対し内匠頭が十分に応えなかったため吉良が嫌がらせをして恥をかかせたとされ、その結果内匠頭は堪忍の限界に達し刃傷に及んだと言うものである。

内匠頭は即日切腹になり、吉良はお咎めなしだったので、家臣が復仇を遂げたというのが巷間に流布している俗説である。その一連の経過がすこぶる大衆受けをし、それゆえ毎年のようにそれを主題にした興業が催されていた。


吉良について現在の刑法からの分析

巷間の俗説では吉良が浅野に賄賂を要求したとされている。そこで元禄当時の社会構造と現代社会の視点から倫理的或いは法的にどのような問題があるかを考えてみたい。初めに断っておくが、私は吉良の肩を持つつもりは全く無い。

先ず現代の法律で当時の事件を俯瞰すると、吉良が要求したとする賄賂が単純収賄罪(刑法197条1項)の構成要件に該当するかどうかが争点である。 現在でも罪刑法定主義の立場から、単に倫理的に問題があると言うだけでは罰せられない。

刑法第197条1項
公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する。・・・・

但し私人の収賄行為は、その職務が公共性を持つために特別法でその処罰を規定するもの以外は原則として処罰されない。

条文中の法律用語を定義すると以下のようになる。

公務員とは「法令に依り公務に従事する職員・・・・」(刑法第7条1項)である。

法令とは国会が制定する法律及び国の行政機関が制定する命令をあわせて呼ぶときに用いられる語である。

国会とは公選によって選ばれた全国民を代表する議員を構成員とする立法機関である。

賄賂とは、公務員、仲裁人の職務に関する不法な報酬としての利益であり、この利益は、有形・無形を問わず、およそ人の需要又は欲望をみたすに足りる一切のものを含むとされる。

徳川幕府による統治体制を考えると、幕府は人民の自由な意志によって合意され設立された政府ではない。それどころか武力で縄張り争いに勝ち、その縄張り内の領民を暴力で統治している私的暴力組織である。

基本的人権を保障した憲法に基づく「法の支配」という統治概念の対極と言って良い。

将軍は行政権、司法権、立法権を独裁者として掌握しており、それゆえそこから出された法律は現代日本で言うところの法令ではなく個人的な命令である。
その結果、法令による公務ではない幕府の役人である吉良は現在の公務員に該当しない。

簡単に言えば、吉良は徳川幕府という私的暴力組織の一員であり、現在で言う所の公務員ではなく私人である。私人の収賄行為は現在でも原則として処罰されない。

現代においては税法上の問題が発生するだけである。

刑法197条1項の単純収賄罪における行為の客体は、公務員の職務に関する不正の報酬たる利益であるが、そもそも吉良が公務員でない以上多額の金品を収受しても本罪は成立しない。

しかし法に触れなければ何をしても良いとは言えない。

それにしても人として問題のある行動に対しては、当人自身に倫理性の高揚を期待するより他に対処の方途が無い事が多い。

もっともこの問題は浅野内匠頭についても同様である。
贈賄罪(刑法198条)の主体は、公務員であると非公務員であるとを問わないが、吉良方に収賄罪が成立しない以上浅野内匠頭が金品を贈っても、現在の刑法の解釈では罪を問われることはない。

吉良が不正の報酬たる利益を得ていたとの非難は、当時の社会を鑑みれば適切ではない。饗応役指南の職にあり、それに伴って金品を受け取ることは、いわば吉良の職業上の役得であり報酬とも言える。

吉良は賄賂を要求したというのが映画や芝居での俗説であるが、賄賂という言葉には刑事責任を伴った負の印象がある。しかし以上で述べたように吉良が受け取った金品は賄賂ではなく単なる贈答である。

現代でも指南を受ければ、お礼の金品を差し出すのは礼儀であり常識かと思う。しかし吉良は賄賂をむさぼり、巨万の富を積みかさねたとの記述が徳川実記にある。

吉良が役職に驕り相手の弱みにつけ込んで高額な指南料を受け取っていた可能性がある。それが事実であれば倫理上の問題として指弾されるであろうが、当時においても可罰的事件にはならない。そもそも幕藩体制を支えていた基幹は、弱者に対する強制と暴力だからである。

藩主が領民に対し、畏怖させる言葉や暴力を用いて強制的に年貢米や課役などを供与させていたのは普く日常的な事実である。

吉良だけが非難される筋合いではなく、徳川を幹とすれば諸大名はその枝の関係にあり、将軍、諸大名とその下部組織は弱者から金品を巻き上げる事において同類である。現代社会の視座から見ると全く許容できないが、幕藩体制とはそのような仕組みで成り立っていた。

芝居や映画で言われている俗説の通りとすれば、松の大廊下事件とは私的な暴力組織の構成員である吉良と浅野の間において、贈答金品の寡少が原因で発生した刃傷沙汰である。



浅野内匠頭について

医者の言葉によれば、殿中でわけのわからぬ事を叫びながら刃物を振り回した浅野内匠頭の精神状態は、統合失調症に見られる被害妄想の症状とよく似ているとしている(徳川将軍15代のカルテ 篠田達明 新潮新書89頁)。他にも同様の診断を下す医者が居る。

およそ多数の人で構成される組織においては、いつの時代でも、そして組織の貴賤を問わず、人間関係でトラブルが起きることは普遍的事実である。その中で人々は世渡りの術を身につけ忍耐を以て生きている。

現代の会社に勤めている人でも、その会社員人生の中で多かれ少なかれ理不尽な屈辱を体験し、心にトラウマの一つや二つ秘めていることが少なくないと聞いている。

十分な指南料を浅野が出さなかったことで、吉良が嫌がらせをする事になったとするのが巷間の俗説である。世の中には単に相性が悪いと言う理由で人間関係のトラブルが起きることも珍しくない。それに比べればカネが原因のトラブルはむしろ解決が容易である。カネでトラブルは納まるからである。

差し出す指導料については、浅野の家士がそれとなく事前に相手側に接触し忖度するはずである。その時の浅野側は江戸に2人の家老がいたが、気配りが足りなかったのかもしれない。しかし浅野内匠頭がその必要はないとして粗末な贈答品で済ませたという話もあり、その場合は家老が藩主の意向に逆らえはしない。なお事件当時江戸にいた家老2人は討ち入りに参加しなかった。

現代社会においても貪欲で狡猾な男と吝嗇な男が接すれば、刃物を振り回す騒ぎにはならないにしても円滑な人間関係を構築しにくいと思う。赤穂藩は塩も生産しており、他藩に比べていくらかでも内福だったと考えられる。

それに長矩が接待役を務めたのはこれが 初めてではない。
事件から17年前の17歳のとき、大石内蔵助の叔父である江戸家老の補佐と吉良の指導のもとに接待役を大過なく務めている。その当時の子細な記録が文書の形で赤穂藩に残っている筈である。

加えるに事件当時の江戸家老が吉良から指導を受けるに当たっての注意事項を、存命の17年前当時の担当家士から伝え聞いているはずである。浅野内匠頭にとっても17歳の時の経験が記憶に無いわけはない。 全く経験も知識もない未知の典礼に臨んだわけではない。

付け届けの額が少ないからという理由で吉良が嫌がらせをするにしても、典礼のさなかに浅野内匠頭が失策を犯せば、その責任は吉良の指導不行き届きとなり責任を追及されることになる。嫌がらせをするにしても自ずから限度があるはずである。 

その程度の嫌がらせは身分の上下制度の厳しい幕藩体制下では珍しくもなく、鬱憤を晴らすために報復する事と、自分の命と藩主としての家門を失い、そのうえ多くの家士を路頭に迷わせる事態と引き換えにするには釣り合いが取れず、忍耐が足りないというより精神異常を感じさせる。

勅使饗応は毎年行われており、他の大名では重大なトラブルが起きたという記録はない。

そもそも浅野内匠頭は性格か精神状態に問題があったとの記述も散見する。
近侍の女性が「今日は頭の具合が良いようだ」などと話していたとの風聞が遺っている。

浅野内匠頭が被害妄想の精神疾患を罹患していたとの推測はあながち間違いとは思えない。


浅野内匠頭の母親の実弟が鳥羽城主だった内藤忠勝である。つまり内藤忠勝は浅野内匠頭の実の叔父であったが、この人物が、延宝8年(1680年)将軍家綱死去の法会が行なわれた増上寺の法場で、宮津城主の永井信濃守尚長を刺殺して死罪となり家門を断絶されている。本来静謐であるはずの葬儀の場で殺人事件を起こすとは、正常な精神とは思えない。

浅野内匠頭
には遺伝的な精神疾患があったかもしれない。

浅野は殿中差しと呼ばれる寸延び短刀を振り回して吉良の背中や額に裂傷を与えた。

短刀を使う場合、頸部の動脈や気管を切断するか、胸、腹に突き刺して内臓を損傷しない限り致命傷にはなりにくい。そのようなことは当時の武士であれば知っていたはずである。

短刀を使う心得が無いというより、精神撹乱による突発的な乱行の可能性がある。

現在の刑法では
39条1項  心神喪失者の行為は罰しない。
39条2項  心神耗弱者の行為はその刑を減軽する。
とある。

今なら浅野内匠頭の刑事責任能力の有無について争われるかと思う。

いっぽう現在では鑑定人である医師が、被告人は統合失調症を罹患していて心神喪失であると主張しても、最終的には裁判官が責任能力の有無について認定するとしている(最高裁判決 昭和59年7月3日刑集第38巻8号2783頁)。

浅野内匠頭が何らかの精神疾患を患っていたとすると、庶民の間で流布している俗説と赤穂義士に対する評価が全くちがったものになる。

つまり吉良は精神異常者に斬りつけられた被害者で、その挙げ句に未明に乱入した浅野の家臣によって首を切断され殺されたことになる。

いずれにしても様々な説は事実関係が不明で、今となっては推測の域を出ないが、世の流説が正しいとは断定できない.

以上        
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