腰刃と焼き落し


腰刃とは、刀の手元にある はばき に近い部分の焼刃がそれより先に比べて特に深い刃文になっていることをいう。

焼き落しとは、腰刃とは逆に刃区(はまち)に近い部分の焼刃が無い状態をいう。但し再刃によってその状態になったものは、ここでは含めない。
いずれも実用上の観点からみれば問題がある。 腰刃について述べれば、そもそも刀は物打30㎝を使うことがほとんどゆえ、鍔元の焼きが深い必要はないばかりでなく、むしろ手元から折れる危険があるので害があると言える。                                        
一方 焼き落しは手元から折れる心配は無いという点では、腰刃より良い。しかし刃区の部分の焼刃がないと、はばき等によってその部分がまくれて損耗しやすい。刃区の線は棟区の線と共に、刀の総体の線の基盤であるので、損耗は甚だ不都合である。

腰刃は主として室町末期に多く見られる。日本の歴史の中で最も多くの戦乱があった戦国時代に多い事は、興味ある事実である。日々の戦乱において、自らの命を全うしつつ争闘に勝たねばならないなかで、武器の持つ欠陥的特徴は自ずから速やかに是正される筈だからである。

腰刃の歴史は古い。

鎌倉初期以前の古備前の一部、たとえば吉包に見られるし、同様の時代の古一文字の爲清にもある。

鎌倉中期頃から末期にかけては以下の通りである。
粟田口国綱は、粟田口一派の中では異風で腰刃を焼いている。
備前長光、守家、吉平にも見られる。

鎌倉末期から南北朝にかけては、延寿国資、左に見られる。

室町初期頃は、宇田国宗に見られる。
                                                    
室町末期においては、島田、末関、村正、山城の長吉それに末備前に多い。
このうち島田、末関、村正の関係は興味深い。のちほど別の話題でも触れようと思うが、島田と村正の二者と末関は鑑定学上街道が違うが、距離的には近接しており互いに影響を与えたとみられ、どことなく作風に似たような雰囲気がある。
山城の長吉は4代目が村正の弟子と言われており交流があった。

新刀期に腰刃を焼く刀工は、要約して言えば、末関の末裔が該当する。その他 縁戚関係が無い場合では、末関と村正を写した場合である。

末関の系統では、三品の金道と正俊、加賀関の兼若、越前関の正則などに腰刃を焼いたものがある。

末関と無関係な刀工では、肥前初代忠吉と2代が末関写し、或いは村正写しで作刀した時に腰刃を焼く場合がある。


焼き落とし



刃文を刃区の上の部分から焼き落とした刀は、曲がる事はあってもはばき元から折れる心配がないから、戦場で命に関わる不都合は無いが、刃区がまくれて損耗しやすい事は冒頭で述べた。

焼き落しは刀の草創期に良く見られるし、辺境の鍛治によくある。その後名刀とされるものでは、南北朝あたりまでに散見するが、室町時代以降で焼き落としになっている刀は、再刃か作位のひどく劣った下作鍛治に多い。

古いところでは 古伯耆物の安綱、真守、 

鎌倉初期では波平行安、豊後行平、

鎌倉中期から末期にかけての雲生、雲次、 

南北朝では宝寿によくみられる。

さらに室町時代に入っては、延徳頃の波平安行にも見たことがある。祖風が残っていたのであろう。



既に述べたように腰刃や焼き落しもはいずれも感心できない。

鍛刀の草創期における焼き落しは、原始的な素朴さが感じられるが、時代が下がるにつれて次第に少なくなった事にもそれは良くあらわれている。

腰の部分の刃文が焼出し風に浅いのは、理想的にも見えるが必ずしもそうとは言えない。新刀以降の刀には焼きが浅くても刃が硬くてもろく、刃区の欠けたものが見られる。

実用面と保存の両面から鑑みるに、焼き出しはある程度浅くして、しかも区の部分はいくらか焼入れを甘くするのが理想である。

その点から評価すると、新々刀の大慶直胤は良く考えて作っていると言える。
 
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