宮本武蔵について


昭和7年(1932)小説家の直木三十五と菊池寛の間で武藏の人間性に関して争論が勃発した。

直木三十五は武藏の人間性を否定するだけでなく、名人に非ずと主張した。曰く遅参など卑怯な手段を用いた。関東の著名な武芸者とはほとんど対戦していない。
傲岸不遜であり人格、人間性、精神的境地が低いとした。 

晩年の文章も新陰流の祖である上泉伊勢守信綱に比べれば鋭さを欠き常識の範囲にとどまる。そして全体として自己宣伝の達人でしかないと断じた。

同様の意見を述べた者に司馬遼太郎がいる。武藏の異形、奇癖、人間離れした身体能力、残忍さ、病的な自負心、用心深さ、自己を世に認めさせたい欲求、政治的打算などが溢れており、そして時代から遺棄されて孤独を漂わせているとした。


対する菊池寛は、武蔵ほど真剣勝負の場数を踏んだものはいない。人間としても立派であり、画技、彫刻、金工、作庭なども秀でていると擁護した。   

歴史上著名な剣術家である武蔵は、どのような信条をもって生き抜いたかについて、主に残された著作によって推測してみたい。

この稿は次の順序で記述することにする。


1 生没年と出生地
2 武蔵の養子
3 著書
4 小倉碑
5 死後に書かれた書
6 武蔵の個人としての武技
7 将卒の兵法
8 剣術の意義
9 下総 藤原観音堂
10 吉岡一門との決闘
11 小次郎との決闘
12 決闘に遅参した件
13 小次郎との試合以後無試合の理由
14 島原の乱参加
15 晩年
16 結論





1 生没年と出生地
通説では天正12年(1584)生まれであるが、養子の伊織直系の宮本家系図には天正10年となっている。本稿では天正10年(1582)とする。明智光秀による本能寺の変があった年である


出生地は通説では美作の宮本村とされているが、五輪書冒頭に「生国播磨の武士」と書かれている。本人が言うのだから播磨なのであろう。

没年は養子の伊織、そして弟子がいたのではっきりしており、正保2年(1645年)5月19日で病死であった。食べた物がつかえ吐いたと伝えられており、食道癌か胃癌だったと考えられる。62歳だった。

墓は熊本市北区龍田弓削1丁目にある武藏塚である。

変転きわまりない戦国時代末期から戦乱のやんだ江戸時代初期にわたっての生涯だった。
父親は田原家貞で、武蔵はその次男であった。武藏の兄の名前は久光で、久光の次男が伊織であり武藏の養子になった。
但し養子の伊織は、小倉碑文の中で武蔵の出自には触れていない。

2 養子
武蔵は死ぬ7日前に書き残した「独行道」に「恋慕の道思ひよるこころなし」とあるように、結婚歴が無く子供はいなかった。そのかわり武蔵には養子が二人いた。最初の養子は宮本三木之助であり、武者奉行の中川志摩之の三男だった。本多藩主忠政の嫡男だった忠刻の小姓として出仕していたが、忠刻が病没したとき殉死している

二番目の養子が宮本伊織である。伊織は武蔵の実家にいる長兄である久光の次男であった。 伊織は慶長17年(1612)生まれで、武蔵より30歳年下だった。 武蔵は伊織に剣を伝えなかった。資質が無いと見たのか、それとも時代の趨勢に従って文吏として生きてゆくように指導したのか分からない。しかるに履歴を追ってゆくと伊織は驚くべき栄進をしている。

寛永3年(1626)伊織15歳頃に小笠原忠真に仕え、その5年後に20歳の若さで家老となっている。小笠原家の小倉転封に伴い2500石になったが、藩内で一門の連枝を除けば2000石が最高なので異例の栄達と言える。

1638年の島原の乱平定後は26歳で4000石に加増され筆頭家老職を務めている。文吏として極めて優秀だったのかも知れない。
伊織の死没は元禄7年(1694)で82歳だった。その後伊織の末裔は幕末まで家老職だった。

しかしながら封建時代は本人個人の能力より、家門とか血脈が藩要職に就くのに重要なわけで、武功のあるはずもない栄達は不思議と言うよりほかない。仮に有能ゆえに家老職に就いたとしても、古くからの家臣と人間関係で苦労することが必定である。
おそらく義父である武蔵の持つ剣術家としての名望が、伊織の栄進に多大な影響があったと考えられる。


3 著書

武蔵の思想信条を知るには武藏自身の著書を読むのが最も信頼できるかと思う。
著書は以下の通りである。

兵道鏡(へいどうきょう)28箇条

慶長9年(1605)初冬頃に、武藏が24歳の頃、吉岡一門との戦いの直後に1年かけて書かれ、世に出たのは慶長10年(1605)である。この書で自分の流派を円明流と名付けている。全28箇条は4つの部分からなり、太刀を持つ時の姿勢、円明流の型、太刀使いの心得、実践的な心得から成っており最後に跋を置いている。


兵法書付 

寛永15年(1638)11月武藏が56歳の時に、この14箇条の術理書を門人に授けた。これはのちの五輪書につながる術理が書かれている。「行住坐臥常に兵法に心をかけ、日常からたえず負けざる所を分別し・・・」とし、
様々な敵への対処の仕方を列挙している。


兵法35箇条

寛永17年(1640)8月肥後熊本の細川藩客分になり、4カ月後藩主細川忠利の決定で300石の扶持が決定した。そのうえ上級武士が住む一画に邸をあたえられている。こ

の時に忠利の命によって書いた。道場の稽古ではなく実践として書いた。五輪書の骨子を35条にしたためている。
忠利は翌年54歳で没したが、その後武蔵は詩歌、茶、書道、彫刻に没頭した。



五方之太刀道(ごほうのたちみち)

寛永19年終わり頃~20年前半武藏が60~61歳の時に書かれ、五輪書の序と考えられる。


五輪書

寛永20年(1643)10月10日午前4時に書き始め、正保2年(1645)4月に書き終えている。晩年最後の61~62歳の時で、書き終えた1か月後に亡くなった。この中では自分の流派を二天一流と名乗っている。

若い時は円明流、のち二刀一流と名乗り、晩年では二天一流と名乗った。武藏の流派はその後続いたが、他の流派のように大流派へ発展しなかった。

一つには形式を排除し、初伝、中伝、奥伝などを設けなかった。二天一流は秘事秘伝も無く、他流で重視されていた「誓紙」「罰文」も無く、大事なことはそんな形式や体裁ではなく、実戦で勝つためには合理的兵法と精神が枢要とした。

他流では親兄弟でも教えられたことは洩らさないという誓紙を提出するのが普通だった。

そして構えに極意など無く心の正しい動きによって兵法の徳をわきまえることが最も肝心とした。(風の巻最終段)

これでは教わるというより本人の生来備わった天稟のみが大事だと言われているようなもので具体的になすすべがない。

他の流派の連中は武芸を生計の手段とし、技巧をはなやかに飾って売りものに仕立てているのであって、兵法の正しい道から逸脱している・・・(五輪書 風の巻)と主張した。


 
五輪書地の巻において、

十三歳の時初めて勝負し、相手は新当流有馬喜兵衛という者に勝ち、以後二十八,九歳迄に六十余度迄勝負するといへども、一度もその利を失わず、と書いてある。

兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事において我に師匠なし。

士農工商においてそれぞれの道に於いて職分を弁え日々務めるべきとしており、そこには職業によって差別する心はない。

風(ふう) の巻
人の構えを うごかせ、敵の心になきことをしかけ、或いは敵をうろめかせ、或いはむかつかせ、又はおびやかし、敵のまぎる々所の拍子の理を受けて勝つ事なれば・・・を勝つための要諦としており、とにかく勝たなければ兵法の価値は無いとしている。分からないではないが、そこには正々堂々とか、人間としての潔さなどは見当たらない。

他流派は真実の兵法ではなく、武蔵の二刀一流のみが絶対的に優れていると書いている。
他流派は生活の手段として兵法を売り物にしているとして、この巻でその欠点を逐一指摘している。


独行道(どっこうどう)

亡くなる7日前に書かれた。いわば辞世の書である。 21箇条から成り、

我、事におゐて後悔せず、

れんぼの道に思いよるこころなし

仏神は貴し、仏神をたのまず 

身を捨てても名利はすてず 

などがある。
このなかで特に興味深いのは「身を捨てても名利はすてず 」の一項目である。

「身を捨てる」とは、一身を犠牲にする、命を捨てるとの意味合いがある。

「名利」は 世間的な名声と現世的な利益。また、それらを欲することである。利益とは仏教用語にもあるが、武蔵が仏教に帰依したことは無いから、富の増加を指すと思われる。つまり経済的利益の追求である。

同じ発音で「冥利」があるが、
これは知らず知らずに受ける神仏の恩恵を意味し、「名利」 とは全く別物で、最初「冥利」の間違いではないかと思ったが、紛れもなく名利と書かれていた。

論語に「
人の将(まさ)に死なんとする其の言や善し」 と言う言葉がある。人が死ぬ直前に言う言葉には、利害・かけひきがなく真実がこもっていると言う意味だが、死に臨んだ枕元で武蔵が発した言葉は、骨の髄から名利を希求していたと考えられ、唖然とするばかりである。

おそらく10代から20代にかけて廻国武者修行の折、銭が無く路傍で飢餓に苛まれたことが有ったのではないだろうか。

なおこの部分は後に宮本武蔵遺蹟顕彰会の本では削除されている。世間への聞こえが悪いと判断したようだ。

徒然草 第38段に「名利につかわれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ愚かなれ」
という一節がある。時代が遥かに違うが、兼好法師と武藏とでは話が合わないと思う。

しかし同じ独行道の中に
道においては死をいとはず思ふ」
「一生の間 欲心思はず

との記述があり、浮利だけを追い求めている狡猾な商人とは違う。


4 小倉碑

武蔵の養子伊織が、武蔵死後九年目の承応3年4月に武蔵を顕彰するために建立した。 小倉藩内の巌流島を見下ろす手向山(たむけやま)にあり、現在の福岡県北九州市小倉北区赤坂である。武藏の友人であった春山和尚の撰文で、大きな自然石に1111文字が刻まれている。

死後九年では当時のことを知るが何人もおり、嘘は書きにくいと考えられ武蔵の記録としてほぼ信頼できる。 但し養父に不都合なことは書かれていないと思われる。 




5 死後発刊され他人が書いた書物

武公伝は 二天記の著者豊田景英の父である正脩が書いた。正脩の父 正剛が八代城代であった長岡直之からの聞いたことを整理してまとめたものである。 長岡直之は少年時代に武蔵から指導を受けた。

二天記 武蔵の死後130年以上あとの安永5年(1776)に豊田景英が武公伝を整理し書き直した。 吉川英治はこれを元に小説を書いたとされる。 武公伝、二天記とも、武蔵の死後かなり経ってから書かれたものであり、虚構が含まれていて信憑性に欠けるとされている。



6 個人武技

武蔵が目指したのは個人の武技の錬成である。優秀な卒としての能力で、戦術家の将を目指したわけではない

戦国時代末期には鉄砲が普及し、集団戦が主となって個人の武技は役割を減じていた。信長、秀吉、家康などは、個人的武力を無視していたわけではなかったが、それより大軍を指揮して合戦に勝つ能力の方に重きを置いていたようだ。

秀吉は矮躯で個人的武力など無かったが、大軍を指揮し合戦に勝つ将才があった。

大坂夏の陣が終わったのは元和元年(1615)武藏が33歳のときで、それ以後は戦の種がほぼ尽きた。

関ケ原の合戦後に生じた大勢の牢人は諸国を武者修行して回り、剣術技を磨いて名を挙げ、仕官(就職)の声がかかるのを待った。

17世紀後半には幕藩体制が確立し、身分による格式が厳格になった。そして集団による軍事訓練は、幕府から厳しく監視され不可能になる。

さりとて個人の武技の需要が全く廃れたわけではない。大名達は戦国武将の性格を持ち続け剣術の稽古をしていた。そして剣術は禅や能などの「道」の一つとして明確に位置づけられるようになった。個々の武芸が重んじられ、剣術が重視されるようになったのである。
それによって剣術師範の就職口が更に生まれた。

実際に家康は柳生宗矩、小野忠明を兵法師範として迎え入れた。更に将軍家光、尾張藩主徳川義直 などの権力者が剣術家を兵法師範として採用している。

要するにそのような形で雇われることを目的に、廻国武者修行の浪人達は武術を磨いていたのである。武藏はそんな一人だった。

名も無い剣術家が世に出るには、既に著名て確立した権威がある者に試合を挑み勝つ事だった。世間での安定的地位を獲得した吉岡や小次郎側にとっては迷惑な話である。
名もない浪人から挑戦状を受け取れば、勝って当たり前で、負ければ社会的地位を失う。無視すれば逃げたと宣伝される。


7 将卒としての兵法

大将の兵法を武藏は「大分の兵法」と名付け、五輪書 火の巻において随所にそれに関する記述がある。

五輪書 地の巻において士卒であっても技を磨き 勝つべき道理を知れば大将も務まるとした。

また五方の太刀道において、項羽が「剣ハ一人ノ敵、学ブニ足ラズ、万人ノ敵ヲ学バン」と言った故事を狭い了見と否定した。
剣の道に通達すれば、万人の陣の勝負も城を攻め落とす事も同じ道理だとしている。
つまり剣は決して一人の敵だけを相手にするものではなく万人の合戦に通じる大なるものであると言う。

武藏は個人的には卒として優秀なことに異論が無いが、多芸多能な人物だったことから、将としての能力をも兼ね備えていた可能性がある。

但し武蔵は戦場で物頭(士官)以上を務めた経験が無く、政道に参加するには門地がなかった。

それに五輪書においては軍学としての、軍勢の陣形、戦術、統率法については述べていない。


8 武蔵における剣術の意義

兵法は人に勝つのが重要で、名を挙げ仕官し禄を得て身を立てることを兵法の目的とした。
武蔵にとっての武士の精神は、死の覚悟ではなくすべてにおいて勝つ事である。
足利公方の兵術師範で扶桑第一と称された吉岡一門に勝ち、小次郎にも勝って武名を轟かせた。
この結果30歳以後、武蔵は大名の客分となることが出来て経済的余裕と自由を持てた。


9 藤原観音堂

慶長16年(1611)小次郎との試合の前年 に、下総の行徳(現在の千葉県市川市本行徳)にある浄土宗 徳願寺に逗留していたとの記録がある。

どのような名分で逗留していたのか不明である。寺としても修行僧ではないばかりか 檀家でもなく、喜捨するわけはなく、殺人術の上達のためにのみ日々考えを巡らせているような男が逗留し、たとえ粗末であっても食事を出すことは迷惑だったのではないか。

浄土宗の寺では行住坐臥いつも南無阿弥陀仏と念仏を唱え極楽往生を願う所とされている。
いっぽう武藏は「兵法書付」に
行住坐臥常に兵法に心をかけ、日常からたえず負けざる所を分別し・・・
とあるように殺人術を練磨し 負けないことだけを考えていた。これでは住職の気分は良くないであろう。

ところで行徳から利根川河畔にある木下(きおろし)という集落に通じる街道があり、
現在でも木下街道と呼ばれている。その街道を行徳から木下方面へ8キロ行った街道沿いに藤原観音堂と名付けられた無住の小さな祠があり現存している。現在の千葉県船橋市藤原町3丁目である。

その観音堂に武蔵が逗留していたとの伝承が地元に残っている。観音堂周辺は徳願寺の寺領であった。観音堂は文政十一年に失火により焼失したが現在は再建され相変わらず無住である。

このあたりは江戸時代初期、武蔵が壮年の頃に新田が開発された。武藏はこの祠に住んで開墾に携わったと伝えられている。

武蔵が自発的に開墾の農夫をするとは考えにくい.。
五輪書の「地の巻」に
役に立たぬことをせざること」
「物事の損得をわきまゆること

との記述がある。

更に独行道の最終条に
常に兵法の道をはなれず
と書いてある。


これらの文言の真意は、常に兵法の修行を心掛け、その役に立たぬことはするなと言う意味である。開墾農作業が兵法の修行に役立つとは思えない。

おそらく 殺人術の上達のために「朝鍛夕錬」するだけの男を住職がもてあまして、寺領の新田開発を命じたのではあるまいか。  

木下街道沿いは農村地帯で剣術師範の需要は無い。翌年には豊前小倉で小次郎と試合しているので、行徳近辺に留まったのは短い期間であったようだ。



10 吉岡一門との決闘

吉岡一門との試合は3回行われた。
1回目は当主の吉岡清十郎、2回目は清十郎の弟の伝七郎であり、3回目は清十郎の子の又七郎を名目人にした。

吉岡一門との3度の試合のうち最初の2度は遅参している。、約束の刻限を辰の刻(午前8時)としたが、武藏は昼近くになっても現れなかった。小次郎との試合でも武藏は遅参したが、相手を苛つかせ平常心を失わせて常の能力を発揮できなくさせるためである。

足利将軍家兵法師範の吉岡一門と3度の勝負をしてすべて勝ったのは事実である。 五輪書には「都へ上り天下の兵法者にあひ数度の勝負を決すといへども勝利を得ざることなし」とだけ書かれている これが吉岡一門であることは小倉碑文に書いてある。

但し戦いの行われた年については小倉碑文に記載がない 通説では慶長9年(1604)武藏が21歳の時とされている。

この試合に負けたため吉岡一門の名望は堕ち吉岡兵法は絶えたが、その直接の原因は、慶長19年6月に御所での観能会において吉岡兼法直綱が警備の役人を斬り殺す事件を起こしたことが原因とされている。 つまり吉岡剣門は武藏との試合後10年間存続したことになる

三度のうち、最初の清十郎、2回目の伝七郎との試合においては、約束の刻限を辰の刻(午前8時)としてあったが、昼近くになっても来なかった。時計が無い時代ではあるが、遅参の程度が甚だしいと言わざるを得ない。

3度目の吉岡側は恥も外聞も投げ捨てて、とにかく勝つことだけを考え、兵杖弓を用意したうえで門弟数百人?の助太刀を集めた。この時の試合の名目人は吉岡清十郎の息子又七郎である。

門弟数百人とは小倉碑に書かれているが真偽は定かではなく、数十人はいたと考えられる。
吉岡門弟が武藏はきっと遅れて来るだろうと言いつつ集まってきた。ところが武藏は敵の意表を突き、夜明け前に参上して松の陰に佇んでいた。

武藏は声高に名乗りを上げ、一撃で大将としての名目人である又七郎を切り倒した後、その場から速やかに逃げ去った。



11 小次郎との決闘

武蔵は慶長17年(1612)4月に豊前小倉に来た。その時の藩主は細川忠興で家老は長岡佐渡興長である。長岡佐渡興長は武藏の父新免無二斎の門人だったと言われており、その縁を頼ったのである。

武蔵の目的は細川家に抱えられた剣名高い小次郎との勝負をするためで、興長に小次郎との試合実現を頼んだ。興長は藩主細川忠興に言上してその許可を得た。


相手が小次郎ということは知られている。しかし小次郎の年齢、人物、事跡は不明である。苗字も佐々木かどうかわからない。試合の行われた年は五輪書の記述では武蔵が 29歳で実戦勝負は終了としているので、慶長15年(1610)頃と考えられる。

場所は無人島の舟島で、現在の下関市に属し下関から400m離れた沖合にある。試合の時刻は辰の上刻(午前7時)と決められたが、実際に武藏が来たのは巳の刻(午前10時)だった。3時間も遅れて来たことになる

小次郎は武藏の遅参を責め、臆したかと難詰しつつ3尺刀の鞘を捨てた。それを見て武藏が 「
小次郎負けたり。勝たば何ぞその鞘を捨てむ」 と言ったので、小次郎は益々激昂した。常識で言えば3尺刀の鞘を身に付けていたのでは試合に邪魔になるので身から離すのは当然のことと思う。 これらは全て武藏の戦略だった。

小倉碑文によれば小次郎が「真剣を以て勝負したし、武藏対へて曰く、爾は白刃を揮って其妙を尽せ、吾は木戟を提げて此秘を顕はさん」と言った。

小次郎は3尺余の長刀を巧みに使うことで知られていた。小次郎は真剣での勝負を申し出たわけだが、 対する武藏は櫂を削って作った木刀だった。木刀での試合は真剣と変わらず死に至るとされている。 事実結果は小次郎が負けて死亡した。当時の試合は防具をつけなかった。

障害物のない開けた戸外の試合で、膂力と技術があれば長い刀の方が七分の利益があるとされている。 武藏が試合に使用した木刀そのものは残されていないが、細川藩の家老長岡寄之からいかなる木刀であったかを尋ねられ、武蔵が再現して呈上したものが残っている。

それは白樫で作った総長4尺2寸余りの少し反りがある木刀で、柄の部分を1尺とすれば身は3尺余となり、小次郎の真剣の長さに匹敵する。

櫂削りの木剣と伝えられているが、写真で見た限りでは長い木刀と言うだけで、ことさら無骨ではないし太くもない。考えられることは武藏も手に合った真剣を所有していればそれを使ったであろうと思う。

しかし3尺余の真剣を武藏は持っていたとは思えないし、そのような長寸の刀は世の中には数が少ないうえに、仮に有っても反りや重さなど自分に合っていないと使いにくい。
刀鍛冶に新たに注文すれば良いが、製作、拵え、研ぎに時間がかかるうえ、何より経済的負担が大きい。それゆえ木刀を自作したのではないだろうか。

武蔵は二刀流を創始したが、吉岡一門、小次郎などの大試合に於いては、二刀を使わなかった。
小次郎との試合は3時間も遅れてやってきたが、それについて詫びたという記録は無い。小倉碑には「両雄同時に相会し」と書いてあり、遅参したとは書いていない 。養父に不都合なことは書かないよう配慮したようだ。



12 戦術としての遅参

吉岡一門、及び小次郎との試合においては決められた時刻を大幅に遅参している。

姫路に仮寓していた時に三宅軍兵衛なる者との決闘の時も、長時間にわたって待たせたとの伝承がある。

遅参することによって相手を憤らせ、そのことによって相手の平常心を失わせて本来の技を発揮できなくさせることを目的としている。
この事は五輪書「火の巻」に「むかつかするという事」として書いてある。
五輪書においては平常心ではなく「平常身」と書かれている。

むかつかするというは、物毎にあり。一つにはきはどき心、二つにはむりなる心、三つには思はざる心、能く吟味有るべし。 大分の兵法にして、むかつかする事肝要也。敵の思はざる所へ、いきどほしくしかけて、敵の心のきはまらざる内に、我利を以て先をしかけて勝つ事肝要なり」

むかつかするとは、現代語で言えば、むかむかする、腹立たしい思いになる、苛々するとの意味かと思う。

吉岡との試合は、いくら時計が無かった時代としても3時間も遅れるとは非常識である。現代社会では極めて無礼であるばかりか社会的信用を失う。

現代では待たされた方が怒って帰ってしまうだろうが、当時ではそうはゆかない。帰れば恐れおののいて試合から逃げたと宣伝されるからである。 現代人から見れば卑怯とか卑劣とのそしりを免れないが、戦国期にあっては特段問題にはならない。

武蔵は試合に遅れたことに対し侘びを言ったためしはない。それは意図的に遅参したからである。詫びるどころか小次郎との試合では、さらに相手がむかつくような言辞を吐いている。
試合相手が激昂すればするほど、武蔵は意図通りになったとしてほくそ笑むことになる。

元和偃武以前の武藏が33歳以前の戦国時代では、勝つ事と生きながらえることがなにより至上の問題であった。合戦で命のやり取りをする時代においては、現代の高校野球試合のように正々堂々などの考えはなかった。敵に勝つことが何より大切だった。負ければ自身の命と家門を失うからである。

その考えは古くからある。孫子(535BC?~?)が「兵は詭道なり」と述べているし、韓非子(280BC?~233BC)も「戦陣の間は、詐欺を厭わず」と主張していた。

戦国時代において大名同士で盟約を締結して合戦に臨んでも、その最中に敵方に寝返った例はいくつもある。 そのため人質を取るのだが、人質の妻子が殺されるのを承知で敵方に寝返った者もいる。松永久秀や荒木村重などである。

しかしながら吉岡一門や小次郎などの試合相手は約束通りの時刻に来ていたわけである。武藏固有の卑劣な性格と言わざるを得ない。六十余度迄勝負するといへども、一度も負けたことは無いとしているが、武蔵個人の刀技が優れていたことは事実であろうが、その陰では卑劣な行動で試合相手をむかつかせることがあったようだ。そのことを五輪書で公言している。

吉岡一門との決闘のうち、3度目はそれまでと異なり約束の刻限よりかなり早い時刻に現場に参上していた。この事についても五輪書 火の巻に書いてある。

山海の心といふは、敵我たゝかひのうちに、同じ事を度々する事悪しき所也。同じ事二度は是非に及ばず、三度するにあらず」

と述べており、吉岡との三度目の決闘において、相手の意表を突き早い時刻に参上したことが戦術として書かれている。つまり同じ事を三回も繰り返すなと言っている。
山海は三回にかけている。





13 小次郎以後真剣試合をしなかった理由

五輪書では小次郎との試合以後、武蔵は決闘をしていない。これについては小次郎との試合の翌年である慶長16年4月に、幕府は西国諸大名に対し法度を出して三箇条の誓詞を出させ、藩内に騒動を起こす私闘を禁じたということもある。

小次郎との試合以後に決闘をしていない理由は、その幕府法度の影響もあろうが、真剣での決闘での恐ろしさを身に染みて感じたからではないだろうか。

小次郎との試合には勝ったが、さんざん小次郎を苛つかせて平常心を失わせたが、鉢巻きを切られ辛勝した。あと一寸(約3㎝)踏み込まれていたなら、頭蓋骨前部を断ち割られ致命傷を負ったはずである。
小次郎が常の実力を発揮出来ていたなら、武蔵が勝ったかどうかは分からない。

武藏が言う兵法の功徳とは、武技の優れていることを実証して剣名を挙げ、仕官の口にありつき禄を得ることである。

しかし世の中には隠れた猛者がいるもので、いつまでも真剣試合をしていれば、加齢による衰えもあり、いつかは必ず負けて命を落とすことになる。

武蔵自身もそのことを弁えていたようで、
五輪書 火の巻 「敵になるといふ事」の段に以下の記述がある。
兵法よく心得て、道理つよく、其道達者なるものにあひては、必ずまくると思う所也。能々吟味すべし。

つまり優れた者と対戦すれば必ず負けるから、相手をよく観察して強い相手とは試合をするなと述べている。

これに該当する出来事があった。まだ無名の頃、九州のとある藩内で武蔵は自分の武技を宣伝していた。其の藩の指南役が放っておけず、試合を申し入れたが武蔵は返事をせず、様子を窺ったあと数日後其の藩を黙って立ち去った。藩の指南役は武蔵が恐れて逃げたと騒ぎ立てた。これは指南役の言う通りであろう。

小次郎以前にも試合をするときは、必ず自分より弱いと判断してからしか試合をしなかったと主張する者もいる。

武蔵は客分の待遇は受け入れたが、仕官はしたことはない。それは経済的充足を得たうえで、しかも宮仕えを避け自由を保持する為だったのかもしれぬ。大藩などの兵法師範になれば、自分がそうであったように日本中の廻国武者修行の浪人達の標的になり、挑まれることになる危険を避けたのではないか。

生計と名望が満たされれば良しとしていたのかもしれぬ。
そして小次郎との試合以後、武蔵は生計に困った様子はない。

つまり武藏が小次郎以後試合をしなかったのは、以下の3つによるものではないかと思う。
1 幕府の禁令。
2 真剣による決闘で命を失うことの危う     さ。
3 剣名があがり生計の途を得た段階で   満足して大藩に仕官する道をやめ、そして試合から身を引くことで廻国武者修行者達の標的になることを避けた。

それは武術家として穏やかな後半生を送るうえで賢明な生きざまであったと思う。結果として武藏は 試合で斬り殺されることなく畳の上で没している。


14 武蔵と島原の乱
寛永15年(1638)武藏が56歳の時、養子の伊織と共に参戦している。原城落城後に武蔵が延岡藩主有馬直純に宛てた書状に以下の文言がある。
拙者も石に当たり、すねたちかね申故、御目見にも祇候仕らず候 」
剣術の大家も、女や雑兵の投げ落とす原始的武器である石に当たって動けなくなったのは皮肉な話である。

15 晩年

寛永17年(1640)8月に武蔵は熊本細川藩 細川忠利の客分となる。当初7人扶持、合力米18石と邸を与えられた。

そして
4ヶ月後300石の扶持が決定された。この当時将軍家兵法指南 小野次郎右衛門忠明は600石、尾張徳川家兵法指南 柳生兵庫助利厳は600石なので、武蔵はその半分で少ない印象があるが、手取りであり実質的に将軍家指南と同等である
この時武藏は57歳だった。


この後死没するまで5年間を熊本で過ごした。細川忠利は1642年に没したが、嫡子光尚は武蔵に対し引き続き先代と同じ待遇を与えた。

武蔵は招かれて熊本の細川忠利の所に行ったわけではない。自分から売り込んだことが細川藩筆頭家老 長岡佐渡守興長宛ての1994年に発見された書状によって明らかになっている。
但し細川忠利は武藏にとって全く縁が無かったわけではない。小倉の小笠原藩 小笠原忠真の姉が、細川忠利の正室である。そして小笠原藩の筆頭家老が武藏の養子の伊織である。

藩主細川忠利は他流の免許皆伝を得ていたが武蔵の門弟となつた。藩内では軽士に至るまで千余人の弟子がいたとの記録もある。                                                                                               なお武藏が病没する時、臣従していた弟子の増田市之丞と岡部久左衛門の二名を召し抱えてくれるように、家老長岡寄之に依頼し聞き届けられた。



16 結論

葉隠(はがくれ)は、江戸時代中期
(1716年ごろ)に書かれた書物で、儒教の影響が強く、武士には主君に対する没我的な服従と献身を要求している。

武蔵にとっての武士の精神は、死の覚悟ではなくすべてにおいて勝つ事である。
勝って武名を挙げ、仕官の口にありつき禄を得ることが目的である。
儒教に毒されてはいない。

どんな職業でも その人生において工夫を凝らし、他の同業者より優れた存在になることを唱道している。これを武藏は「勝つ」と称しており、職業差別の意識はない。 

武蔵ほど一つの道に人生のすべてを 異様なほど捧げた人物は少ないのではあるまいか。

武蔵は歴史に残る剣術の達人であったことは間違いない。術技だけでなく、立ち会うだけで相手を威圧する「気」を漂わせていたようだ。

しかし一方、勝つことだけに執着し、爽やかな潔さは見あたらない。

礼儀、気配り、世間の評価などを完全に放擲し、後悔などしなかったことも事実である。
                 完
 
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参考文献

五輪書の哲学     前田英樹
宮本武蔵  魚住孝至
五輪書   鎌田茂雄
宮本武蔵のすべて   岡田一雄  加藤寛者が