南北朝時代における刀の年紀について



南北朝正閏論はさておき、刀工がいずれの元号を使い、なかごに年紀として刻んだのか興味深い。
まず南北朝それぞれの元号を対比すると以下のようになる。
 

          北朝                        南朝
1334 建武 (元弘4年1月29日改元)
                           1336 延元 (建武3年2月29日改元)





1338 暦応 (建武3年2月29日改元)
                           1340 興国 (延元5年4月28日改元)




1342 康永 (暦応5年4月27日改元)

1345 貞和 (康永4年10月21日改元)
                           1346 正平 (興国7年12月8日改元)





1350 観応 (貞和6年2月27日改元)




観応2年11月2日 正平一統により北朝は南朝元号の正平を採用し南北朝同一元号となる




1351 正平   1351 正平6年 




1352年 正平7年9月27日北朝は再び独自の元号として「文和」に改元、正平一統は崩壊




1352 文和  



1356 延文 (文和5年3月28日改元)



1361 康安 (延文6年3月29日改元)



1362 貞治 (康安2年9月23日改元)




1368 応安  (貞治7年2月18日改元)
                            1370 建徳 (正平25年7月24日改元)

                             
 


                           1372 文中 (建徳3年4月?日改元)






1375 永和 (応安8年2月27日改元)   1375 天授 (文中4年5月27日改元)





1379 康暦 (永和5年3月22日改元)




1381 永徳 (康暦3年2月24日改元)   1381 弘和 (天授7年2月10日改元)






1384 至徳 (永徳4年2月27日改元)   1384 元中 (弘和4年4月28日改元)






1387 嘉慶 (至徳4年8月23日改元)



1389 康応 (嘉慶3年2月9日改元)



1390 明徳 (康応2年3月26日改元)                                 
                                                      

1392年10月北朝元号の明徳に統一して南北朝終了


                        

結論を述べれば、刀鍛冶達が用いた元号は、圧倒的に北朝元号が多い。

その中にあって、肥後の延寿一派はほぼ一貫して南朝元号を用いている。
2代とされる国時に、延元4年、興国3年、正平7~12年の年紀があり、
3代とされる国時に建徳2年の年紀がある。

国泰に、延元2年、3年、正平5年の年紀がある。

3代とされる 国資に 天授2年の年紀がある。 


延寿一派が南朝元号を用いた理由は、この一派の在した肥後菊池郡が、
豪族の菊池氏の支配下にあったためと考えられる。
菊池氏は数代にわたって南朝のために戦った南朝方の功臣である。
その支配地に居をかまえる刀鍛冶にとっては、菊池氏は重要な顧客と
いうよりも、その支配を受けて隷属していたと考えられる。
それゆえ 南北朝正閏を考える以前に、盲目的に菊池氏の意向に従った
のであろう。       

正閏論に依拠し、敢えて南朝元号を使用したと思われる刀工に、
備中青江貞次がいる。延元、興国、正平5~13年の年紀があるが、
この事実は興味深い。

なぜなら同流派で同時代、同地域に生きた次直が、「正平の一統」を
含めてほぼ正確に北朝元号を採用しているからである。

同じ流派の青江直次も、正平の一統の際に多少の混乱はあったにせよ、
ほぼ北朝元号を採用している。

貞次と次直、それに直次は同門で、備中国青江、現在の倉敷市の
あたりに住み、日常的に顔を会わせる機会が多かったはずであり、
情報を共有していたとするのに何ら不自然は無い。
あえて貞次のみが南朝元号を用いたことには、明確な恣意性が認められる。

南北朝時代のころは、現在と異なりマスメディアが発達しておらず、
辺境の地までいかにして頻繁に変わる元号を衆知せしめたかは
興味あることである。

もっとも現今でも、3~4年でめまぐるしく改元したのでは、
追随できない人も出てくるであろう。

上記の年表に示したように、「正平の一統」は1年に満たないわずかの
期間であった。  しかしまがりなりにも両朝の元号は、
観応2年11月2日に「正平6年」として統一された。

しかし翌年の正平7年には、北朝は再び独自の元号を定め、
文和と改元している。故に北朝に、正平8年以降の年号はない。

この変化に正確に追随した刀工もいるが、
本来北朝元号を使っていた刀工でも、
なかにはそのまま正平元号を使い続けた刀工もいる。
おそらく正確な情報を得られなかったか、
それとも判断が揺れたのではないかと思う。

たとえば、備前長義は正平9、13、15、17、19年の年紀がある。
石州貞綱は正平10、16年の年紀がある。
長州安吉は正平10,11,17年の年紀がある。

これらの刀工は、その後北朝元号に戻っている。

                             
   参考文献 日本刀銘鑑 第3版 石井昌国著 雄山閣

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