大塩平八郎について





人間社会において権力を獲得し、その組織を維持拡大するには「利益」と「恐怖」 の二つの相乗効果を用いるのが有効であるとされている。

それは孫武(BC500頃)、韓非子(BC280~BC233)、マキャベリ(1469~1527)、ナポレオン(1769~1821)等が同じように主張しているが、世が移ろっても人間が作る社会である以上、基本的に現代でも変わることは無い。

しかし利益だけでは動かない人々も存在する。
統治に際し命に関わる恐怖のみでも有効ではある.。
しかしそれは革命により一朝にして体制が崩壊する危険を常に内包することになる。

更に利益で動かないばかりか、命の危険さえ一顧だにしない人も稀にいる。

現代の日本社会での恐怖は、命に直接かかわることは無いが、それは馘首、組織内での左遷、降格、或いは出世の道が閉ざされるという形で現れる。下請け企業社長であれば、仕事を干される状況が該当する。

しかし江戸時代以前では判断の誤りが本人の生死に関わったばかりか、その影響は親族にまでに及んだ。それゆえ殺されるという恐怖の中で人々は行動を律して生きていた。

大塩平八郎はその見地から鑑みるに稀有な存在であり、刮目すべき人物である。

彼は利を見て進まず、さらに命に危険が及ぶことにさえ敢えて退かずという信条を持って生きていた。

そして自分の身を考えることなく乱を起こし、結局自滅した。
彼以前に幕府の統治体制内部の人間でありながら、体制に刃向かった人間はいないという点でも特筆すべきである。

この稿では、大塩平八郎に関して以下の順で記すことにする。

1 生まれと生い立ち

2 平八郎の家門

3 平八郎の性格と学問

4 乱を決行した理由

5 檄文内容の意訳

6 乱の目的

7 乱に至るまでの経緯

8 乱蜂起

9 乱が失敗に至った原因

10 乱のあとの平八郎の行動
 
11 平八郎の最後に至る経緯

12 乱の終滅後に下された刑罰

13 平八郎の刀剣

14 
乱に対する私見


なおこの稿は主として中央公論社刊 幸田成友著 大塩平八郎 から資料を得ている


1 生まれと生い立ち

大塩平八郎は寛政5年(1793年)大坂で生まれた。
幼名を文之助と言い、 長じて通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起 、号は連斎・中軒・中斎 と言った。
本稿では以後、大塩平八郎を中斎と呼ぶことにする。

中斎には弟がいたが2歳で亡くなっている。他に兄弟姉妹はいない。
中斎は7歳の時、父の敬高を亡くし、8歳で母を亡くした。
それゆえ以後は祖父の政之丞と祖母に育てられた。
父の敬高は29歳で亡くなった。敬高が亡くなった時、祖父の政之丞は47歳であった。その後政之丞は文政元年(1818年)66歳まで生きた。
中斎が乱を起こしたのは天保8年(1837年)なので、祖父の政之丞は乱の19年前に亡くなっている。

中斎は正式に結婚したことは無いが5歳下の妾がいた。
妻がいないので現代ならさしずめ事実婚ということになるかもしれぬ。
二人の間には子供は生まれず、それゆえ格之助という名の養子を迎えた。
格之助は文化9年(1812年)生まれなので中斎より19歳年下である。格之助は中斎と同じ東組与力をしていた同僚の西田清太夫の弟だった。

格之助はみねという名の5歳下の女房がおり、二人の間に生まれた息子の名を弓太郎という。みねにとって中斎の妾ゆうは叔母だった。


2 中斎の家門

家は代々大坂東町奉行組与力であった。
いつごろから先祖がその職に就いていたのかは不明ではあるが、祖父の政之丞からその職にあったことは間違いない。

その地位は表向きは一代限りとされていたが、願いを上申することによって倅が受け継ぎ、事実上世襲である。

大坂は町人の町で、与力同心は市民が直接目にする数少ない武士階級であった。

与力は表高二百石で、実収は八十石だったが、実際には二千石に匹敵する暮らしをしていたとされる。
それは年頭、八朔の年2回付け届けがあるのみならず、訴訟、その他の事件の際に与力へ礼銀を差し出す習慣があったためである。

与力は刑事事件の取り締まりのみならず、社寺、土木、触書発布に至るまで、さまざまな実権を掌握していた。

町奉行のほうが地位は上だが彼らは交替する。与力は事実上世襲で居着きなので、奉行も与力の顔色を窺っていたようだ。

中斎は文化14年(1817)24歳の時に定町廻となった。その後 文政13年(1830年)7月に東町奉行である高井山城守が老齢を理由に辞職した。
中斎は山城守に従い自らも与力を辞職し、その職を養子の格之助に譲った。中斎が37歳の時である。中斎の在職は14年に過ぎなかった。


3 平八郎の性格と学問

言行録を見る限り清廉潔白な性格であった。当時は金子が入った菓子箱を与力が受け取ることは日常的であったが、町人から金子が入った箱を贈られた際、中斎は

「この度は内聞にするが、今後心得違いなきようにせよ」

との添え状とともに突き返した。

西組与力である弓削新右衛門が権威に驕り賄賂を収受しているのを見て、必死の覚悟を以って辞職に追い込んだ。
そして弓削が賄賂として受け取った三千両を取り上げ窮民に施した。

このような糾弾行為は敵を作ることになり、敵側が中斎の身辺を巨細なく調べることになるから、身辺に全く不正の事実が無い限り出来ることではない。

中斎は陽明学者として名高く、洗心洞という名の私塾を開いていた。 その学ぶところは「孔孟学」としており、陽明学とは言っていない。
幕府は寛政2年(1790年)に寛政異学の禁を出し、朱子学以外の同じ儒学の支流である陽明学の講究をも禁じていた。異学の禁は、あくまでも幕府内部の規制であり、諸藩に強制したものではない。
しかし幕府の下僚である中斎は当然従わざるを得ず、陽明学の名を出すわけにはゆかなかった。

洗心洞に入塾する際には以下の八ヶ条の誓約を立てることを要求した。

第1条 俗習に率ひ学業を荒廃し奸細淫邪に陥ることあらば、経史(儒教の本)を購い塾に出すこと。

第2条 小説及び雑書を読むべからず。もし犯せば鞭朴(むち)を加える

第3条 毎日経業(儒教の書物)を先にし、詩章を後にする。この順序を顛倒せば鞭朴(むち)を加える

第4条 登楼、飲酒の放逸を為すを許さず。

第5条 寄宿中は私的に塾を出入りすることを許さず。師に請わずして出入りする者は帰省というとも赦し難く、鞭朴(むち)を加える

第6条 家事に変故あるときは必ず師匠に相談あるべきこと

第7条 葬祭、嫁娶、及び諸吉凶は必ず師匠に相談すること

第8条 公罪を犯したときは、親族と言えども掩護せず、之を官に告げてその処置に任すこと

入塾の心構えは厳しく、不忠不信の行があったり、人を欺くことがあれば手打ちにするというものであった。

実際に中斎は洗心洞においては、長幼の別なく折々に杖で打ったと記録に残っている。

さらに入塾中は夜中に必ず一度中斎の点検を受ける。時刻の決まりはなく、中斎の見回りがあると直ちに起き上がり袴を着けて挨拶しなければならなかった。まるで野戦陣地の兵隊のようなものであった。

中斎の学問は活きて働かすということが本意で、たとえ老中、城代であろうともその処置が経書の趣意と異なれば批評を加えた。
それゆえ時として、みだりに政道を是非する癖があるとの批判を受けていた。

その一方で、束脩、月謝の事に関する記録はない。
このことは中斎が与力を辞職した後の弁に現れている。
その中で、私塾を開いたのは、糊口にあらず、声誉を求めんとするにあらず、再び世に用いられんと欲するにあらずと述べている。

しかし中斎は精神の内面を律するには厳格だったが、日常的作法はうるさくなかったようだ。

中斎の知己で間確斎という人物がいた。かねて中斎から行き届かぬ点があれば遠慮なく知らせてくれと言われており、塾の玄関には塾生の下駄が乱暴に片方ずつ脱ぎ捨てられ乱雑を極めているのを見て整理整頓すべきではないかと告げた。
それに対し中斎は「御心付誠に忝し」と述べた。
しかし一カ月後行って見ると、玄関の乱雑さに変わりはなかった。

大坂西町奉行であった矢部駿河守は在職中、隠居の中斎と談じ、少なからざる益を得たとしているが、一方では中斎を評して悍馬のごとき性格で危うきことありと述べている。
つまり激高し易き人との評価があったようである。

暴動を起こした天保8年2月19日朝、中斎の弟子である宇津木矩之允の下僕である岡田良之進は、宇津木と共に大塩邸に寄宿していたが、建具を打ち壊す音と同時に中斎の
「役立たぬものは討ち捨ててしまえ」
という大声を聞いた。その罵声は宇津木矩之允に対するものだった。
矩之允はかねがね、「わが師は短気の性分にて、平生門人を教えるにも抜き身を振りまわす事がある」 と語っていた。

結局矩之允はその日大塩邸の便所で、大井正一郎によって刺殺されている。29歳だった。
便所は狭いので刀より槍のほうが機能的であると指導したのは中齊である。

矩之允は中斎から暴動の一味に加入せよと勧められたが、聞き入れず、むしろその無謀を諫めたことが原因である。

入塾の際に言われる不忠不信の行があったり、人を欺くことがあれば弟子であっても手打ちにするという文言は脅しではなく実行された。



4 乱を決行した理由

天保の飢饉は天保4年(1833年)に大雨による洪水や冷害を原因として始まり、1835年から1837年にかけて最大規模となり、1839年(天保10年)まで続いた。

その結果米価急騰を引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、特に大坂では、毎日約150人から200人を超える餓死者が出た。

それに対し町奉行の措置は当を失い、そして富商豪家の義捐ははかばかしくない。

飢えに泣く窮民がいる一方で、権威に驕る役人あり、驕奢を競う豪商あり。中斎はこれを見て安座するに堪えずとしている。

大坂から他国へ米を出すことを禁じるのは良いが、時の大坂東町奉行である跡部山城守が江戸廻米に尽力したことは全く矛盾している。

跡部山城守の実兄は幕府老中の水野越前守忠邦であった。山城守はその事実を恃んで与力の意見を用いず独断専行のきらいがあった。

窮民救済策を息子の格之助をもって跡部山城守に再三陳情したが、最後に山城守から平八郎は乱心したりやと面罵された。

富商豪家の義捐金の件は、鴻池屋以下が一旦は承知したが、寄付の件を町奉行の山城守に届けたところ、与力の隠居(中斎)程度に莫大な金銭を渡すなら、今後江戸からの御用金の申し渡しがあった場合に文句を言わせないぞと言われ、恐れをなして中斎との約束を反故にした。


5 檄文内容の意訳

天保8年に中斎が出した摂河泉播磨の村々の庄屋、年寄、百姓並小前百姓共を宛名とする檄文が残っている。その内容を意訳すると以下の通りである。

東照神君(家康)は憐みは仁政の基と言った。しかしここ240~50の太平の間に、上の者は驕奢と驕りを極め、大事な政事に携わる諸役人は賄賂を公に授受し、そのいっぽう奥向き女中に贈賄して繋がりを作って立身出世をはかった。
そして自らの身と家を肥やすことのみに智術を使っている。

そのうえ領分の民百姓は年貢諸役の甚だしさに苦しんでいるが、更に過分の用金を申し付けている。
これに対し人々は上を怨まない者はいないが、江戸はもとより
諸国一同改めることはない。

天子は足利家勃興以来、御隠居同様で賞罰の権を失っているので、下民の怨みはどこへも訴えるところが無い。

しかし人々の怨みは天に通じ、天災流行、飢饉が頻発しているのは、天の有難きお諌めなのだが、小人奸者の輩は一向に態度を改めない。

それに対し我々(中斎)は、草の陰から察し悲しんで蟄居するばかりである。そうするうちに近頃米価が高騰しているが、大坂の奉行並びに諸役人は仁を忘れ得手勝手な政道をして、江戸へ廻米をしている。

天子御在所の京都へ廻米の世話をしないばかりか、京から5升1斗位の米を買いに来た者を捕らえている。

大坂の金持ちは年来諸大名へ貸付け、それによって得られた金銀米の莫大な額を掠め取って、未だかってなかったような裕福な有様である。

そして彼らは成人男子であるというだけの資格で大名の家老用人格に採用され、或いは自分の田畑を夥しく所持して何の不足も無く暮らしているにも拘らず、目の前の天災天罰を見ながら、餓死する窮民たちを救わず、自分たちは美食に耽り、妾宅に通い、遊女を呼んで遊ぶ家に大名の家来を誘い、高価な酒を湯水を飲むように飲み、絹服をまとって芸人を妓女と共に呼んで遊楽に耽っているのはどうしたことか。

奉行諸役人は握っている政治的権限を行使し、これらの者共を取り締まり、下民を救済すべきであるが、毎日堂島の米相場に関わっている有様は禄盗人そのものであり、天道聖人の御心に反して赦し難い事である。

蟄居の我らは最早これ以上堪忍できず、天下のために血族に禍が及ぶことを承知の上で有志の者と申し合わせ、まず諸役人を誅伐し、その後驕り高ぶった大坂市中の金持ち共を誅戮して、彼らが貯えている金銀銭、それと諸蔵屋敷に隠しおいている米を分捕って窮民に分散配当する。

それゆえ大坂市中に騒動が起こったと聞いたなら、たとえ遠距離でも一刻も早く大坂へ馳せ参ずべし。

これは一揆蜂起の企てとは違い、先々年貢諸役を軽くし、このところの驕奢淫逸の風俗を相改め、質素に立ち戻るための行動である。

万一大坂からの番人が察知し大坂の奸人共へ注進するような様子なら、遠慮なく番人を残らず打ち殺すべきである。

我ら一同は天下国家を簒盗すると言うような欲念から行動を起こす意志は全くない。

なおこの檄文の最後には、以下の脅し文句も書かれている。

若庄屋 年寄 眼前の禍を畏、一己に隠し候はゝ追って急度其罪可行候。

(この檄文を受け取った村々の主だった者で、事の成り行きを恐れて檄文を周知させず、自身のみに隠しおいたならば、必ずその罪を追求されることになる)


6 乱の目的

乱の目指すところは檄文に書かれている。

その要旨は
諸役人を誅伐し、その後驕り高ぶった大坂市中の金持ち共を誅戮して、彼らが貯えている金銀銭、それと諸蔵屋敷に隠しおいている米を分捕って窮民に分散配当する。
そして先々年貢諸役を軽くし、このところの驕奢淫逸の風俗を相改め、質素に立ち戻る。

なおかつ乱の前年の天保7年10月初旬に中斎は吉見九郎右衛門を招き、次のように語っている。

「世を憂い民を弔う大義を唱え、東町奉行 跡部山城守を討ち取り、大阪城を始め諸役所その他市中を焼き払い、富商豪家の者共が多年蓄積した金銀、並びに諸家蔵屋敷に囲い置ける米穀を窮民に配分する。然る後に摂州甲山に楯籠り、時機を見て大義を成就する所存」 


7 乱に至るまでの経緯

中斎が乱を決意したのは、天保7年10月初旬頃とされている。乱を実行したのは天保8年2月19日午前8時である。

中斎は蔵書を4軒の古本屋に売り払い、600両以上を得たとされている。いっぽう中斎の弟子で柴屋長太夫が天保8年正月に至るまでに蔵書を買い入れる形で200両と銀12貫600匁を貢いだと言う話もある。

近在の33町村の窮民に一軒あたり金1朱を施すと、その総額は620両余である。 1両は16朱であり、天保の頃の金一朱は現在の価値で3000~5,000円弱と考えられる。

施行は天保8年2月6,7,8日 の3日間行われた。当時多人数に米銭を施すのは、町奉行所の認可が必要だったが、届け出が無いゆえ奉行から査問があった。
それに対し中斎は不注意を謝し、奉行も特に事荒立てるに及ばずとして黙許した。

但し弟子たちがそのカネの引き換え札を渡すとき、天満に火事あらば必ず大塩先生のもとへ駆けつけよと申し渡している。


8 乱蜂起

天保8年2月19日午前8時ごろ、一隊は大塩邸を繰り出た。
その際 まず向屋敷である西町与力の浅岡助之丞邸に大砲を打ち込み、尚且つ自邸の大塩邸に火を放ち、更に到る所で大砲、火矢、焙烙玉を投げつけた。

そのうえ抜身の槍、刀を振り回しつつ、百姓、町人と言わず味方に加われと怒鳴り散らし、不承知ならば斬り殺すぞと脅しつつ進んだ。

そして主要目的の一つである北船場に至り豪商豪家を焼き払った。

火事は尋常の出火と違い八方で発生し、市民は着のみ着の儘で逃げた。そのうえ20日夜から21日正午にわたり激しい風雨に見舞われたので、多くの幼児、病人、産婦の苦悶の叫び声が響き渡った。

火は延焼し、20日午後9時にやっと鎮火した。消失家屋合計は3389軒に及んだ。

乱は1回目の衝突現場である内平野町を経て、2回目の衝突現場である淡路町を最後に大塩党は姿を消した。

乱は事実上終結したのである。その時点では首謀者の誰も捕まっていない。
乱当日の2月19日午後4時ごろ中斎は敗戦を認め、銘々は随意に立ち去るべしと命じ、主だった者14人で逃げ延びようとしていた.
乱を蜂起した午前8時以降、周囲を捕り方に囲まれ命がけの時間を過ごしていわけであり、休憩どころか昼飯を食べる余裕も無かったはずで、疲労困憊の極みに達していたことは想像に難くない。..
乱は勃発後8時間を経て事実上解散した。

これに対し2月19日夜、大坂城代は各藩蔵屋敷に中斎父子および首謀者4人の人相書きを配布した。

さらに2月20日から26日にかけて京都所司代、京都町奉行、そして幕府が本格的に動きだし捕縛に乗り出した。


9 乱が失敗に至った原因

乱は未然に発覚している。それは中斎弟子の平山助次郎から漏れた。
平山助次郎は文政3年(1820)15歳で東組同心見習勤めになり、文政4年(1821)に中斎に入門している。更に天保7年(1836)正月に町目付になった。

天保7年の或る日に同じ中斎弟子で東組同心である渡辺良左衛門が平山助次郎宅に来て、何か事があれば身命を投げ捨てる決意があるか師の申し付けで存念を聞きに来たと言った。

平山助次郎は不審に思いながらも同意の返答をした。そして翌年の天保8年(1837)正月に渡辺良左衛門が檄文を持参した時は一議なく連判した。
そして同年2月15日平山助次郎は自宅にて渡辺良左衛門から、更に翌日中斎から直接挙兵の日限、方略を言い渡されたが、ひとり考えたすえ密訴すると決断した。

しかし密訴するにしても、東町奉行には仲間が何人もいるので容易ではない。しかし2月17日夜辛うじて東町奉行 跡部山城守に面会し内情を届けた。この時点で中齊の計画はすべて漏れてしまっている。

跡部山城守は直ちに取り調べるには東組内に中斎の門弟が多数いるので、ひとまず一書を平山助次郎に預け、江戸表の勘定奉行に出訴するように命じた。

平山助次郎が江戸に到着したのは2月29日である。乱が勃発したのは2月19日だった。
平山助次郎は身柄を江戸下谷の広小路にある大和守忠綱の屋敷に預けられたが、そこで自殺した。

もう一組密訴した者たちがいる。東組同心吉見九郎右衛門の倅である英太郎と、同東組同心の河合郷左衛門の倅である八十次郎の両名が、九郎右衛門自筆の訴状と檄文の版刷を携え、2月19日午前4時前に支配違いの西町奉行の役宅に駆け込んだのである。

吉見九郎右衛門、河合郷左衛門は共に中斎の弟子であった。
この時英太郎は16歳、八十次郎は18歳である。
なお乱のあと、この少年2名は褒美としてそれぞれ銀50枚を貰っている。

密訴されたのが失敗の大きな原因とばかりは言えない。
計画が疎漏であるばかりでなく、その目的の実現性が乏しかったと言える。

10  乱のあとの中斎の行動

淡路町での衝突を最後に大塩党は姿を消したが、その時点で中斎一行は14人だった。中斎は同志の者たちに向かい、かくなる上は自分は自殺するつもりだから、銘々は随意に立ち去るべしと言った。

この時弟子の渡辺良左衛門と瀬田斉之助の両名が、中齊に自殺することを諫めた。それゆえ一旦遠国へ落ち延びることに中斎は決心した。この時点で中斎以下5人となった。

その後大和を目指して落ち延びて行く際に、中斎父子と渡辺良左衛門の3人のみになり、そのおり良左衛門の疲労が甚だしくて歩けなくなり自ら屠腹した。乱以後何日もの間、十分な睡眠や食事もとれなかった筈だから無理もない。

当時大坂油掛町に住んでいる美吉屋五郎兵衛という者がいた。五郎兵衛の生業は手拭地の仕入れ職である。五郎兵衛は多年大塩邸に下僕のような立場で出入りしており中斎と懇意だった。

天保8年2月24日夜8時頃、中斎父子が突然訪れ、当分匿ってくれと要求した。不承知ならば居宅に火を放ち家族全員焼き殺すと言ったため止むなく承知した。

数日後 五郎兵衛は自身と縁者に罪が及ぶとして立ち退きを要求したが、それに対し中斎は今しばらく忍ばせよ、さもなくば一同焼き殺すと再度脅迫した。

五郎兵衛は妻つねにだけ事実を打ち明け、父子を離れの座敷に移した。


11 中斎の最後に至る経緯

中斎が隠れていた美吉屋五郎兵衛宅に下女がいた。その下女が年季を終え天保8年3月初旬に故郷の実家へ帰った。その折に、旧主人の家では家内人数の割に飯米を多く消費している。毎日神前に供えると言って主人夫婦が持ってゆく飯はお下がりが一粒も無いと話した。

その話は陣屋に伝わり、そして与力内山彦次郎に知らされた。五郎兵衛を呼び出して厳しく糾問すると、中斎を匿っていることを白状した。

天保8年3月27日朝5時に五郎兵衛宅を取り囲み父子を捕縛しようとしたが、中斎は離れ座敷に火を放ち、その火炎の中で咽喉を脇差で横に掻き切って自殺した。
息子である格之助の遺体を検分すると、中斎に胸を刺し抜かれて死んだ様子だった。


12 乱の終滅後に下された刑罰

当時は死後入牢という制度があり、重大犯罪人は死骸を塩漬けにして牢屋敷に差し置き、死後であっても処刑した。

「大塩平八郎父子裁許書」と称する平八郎とその養子の格之助に対する判決書が残っている。判決の申し渡しがあったのは、事件の翌年天保9年8月21日である。

その判決書の最後に
重々不届至極ニ付、両人トモ塩詰之死骸引廻之上、於大坂磔申付ル」と書いてある。

乱の首謀者である大塩平八郎父子を含めて主だった者計19名は、塩詰めの死骸を三郷引き回しの上、磔と決まり天保9年9月18日鳶田において処刑された。この時まで存命だったのは竹上万太郎一人であった。

多少を問わず本件に関わったものは殆んどの者が罪を得た。
武士の犯罪者の親類が処罰されることを縁座と言うが、妻子や親族などまでもが罰せられた。 

中斎の妾ゆうは遠島と決まったが入牢中に牢死している。
中斎息子の格之助の女房みねは長男である弓太郎と共に入牢したのち母子とも牢死している。
弓太郎は父の科により死罪とするべきところ、2歳という幼い故を以って大坂永牢に処されたのだった。

中斎に脅迫され犯人蔵匿せざるを得なかった美吉屋五郎兵衛は引き廻しの上獄門となり、実に気の毒なことではあった。 五郎兵衛の妻つねは遠島になった。

中斎の書籍を買い受け、世話をした4軒の古本屋の店主と、その店の所在地の年寄は「急度叱り」、家主、5人組は「叱り」という罰を受けた。

乱に関わって召捕りになった者の多くは入牢中に病死している。

幕末における牢内の環境は極めて悪く、陽があたらず風通しが悪い上に不衛生なため牢死する者が多かった。そればかりか牢内では、厳格で凄惨な階級組織が出来上がっていた。

牢内の最高権力者は牢名主と呼ばれる人物であり、生殺与奪の権利を持っていたとされる。

牢内で重要なものはカネであり、牢名主にカネを差し出さないと死に至ることも珍しくなかった。そして牢番にカネを握らせることにより、禁制品の金銀、刃物、書物、火道具などを公然と持ち込めた。

吉田松陰が小伝馬町で入牢した際、本人にはカネが無かったが、支援者達が多額のカネを工面して牢名主に渡したため、吉田松陰の牢内での階級が飛躍的に上昇して苦労しなかったとされている。
なお当時の牢内の様子は、中嶋繁雄著 「江戸の牢屋」 河出書房新社刊 に詳しく書かれている。


13  中斎と刀剣

中斎が常用し、最後に咽喉を横に掻き切って自殺に用いた脇差は、捕方の町同心が現場から持ち出し現存している。
その脇差は、長さ1尺7寸4分 杢目肌 にえ出来の乱れ刃とのことである。

表に 依大塩中斎先生命鍛之   
   畠山大和介源正光(花押)
と銘がある。
裏に 菊紋があり、その下に以下の裁断銘がある 
   天保四癸巳十二月十一日
   町奉行組同心古市丈五郎吉平(花押)
乳割土壇拂一寸餘切入

あまり聞かない刀工名であるが、銘鑑によれば正光は天保頃に摂津で鍛刀している。正光の親までは大坂で料理道具を作っていたようだが、正光に至り安涛を師匠として刀鍛冶に転業した。
師の安涛は播磨の人で、寛政から文化にかけて作刀歴がある。
更にその安涛は因州浜部寿格の弟子である。

正光は大塩塾に入門し、師弟の間柄だったという話もある。

中斎の刀が残っていないのは、乱後落ち延びる時、刀を差していたのでは見咎められる恐れがあるため川に投げ捨てたためである。
なお中斎と付き合いは無かったが、当時の著名な刀工である大慶直胤が、暴動の始末を詳細に書いて江戸に報告している。

14 乱に対する私見


庶民の窮状を目の当たりにし看過できずに、利害とそして生死をも超越して行動を起こした中斎の生き様は、比類が無く誠に立派である。

世の不正不義を目にしても、糾弾する行動の結果が蟷螂の斧でしかないとして看過するのがいつの世でも常である。
それでも敢えて立ち上がり行動に示したのは真似できることではない。

現実問題として統治体制が固まった幕府体制において、一介の町与力が変えようとしても実現性は殆ど無い。

追々年貢諸役に至るまで軽くすることが目的であると大坂町与力が高らかに謳っても、藩と幕府が黙っている筈がない。

幕末に於いて大政奉還から王政復古になり統治体制が劇的に変化したが、それは黒船来航による外圧と、薩英戦争、四国連合艦隊との戦いを通じて彼我の軍事力の差を知り、変わらざるを得なかったゆえである。

飢饉は天保に限らず歴史的にたびたび襲っているが、窮民救済の内政問題にとどまっているので、日本での飢饉は体制変化の誘因にはなりにくい。一揆が勃発する程度である。

中斎は乱を起こすにあたって、戦略とか戦術どころか兵站にも気を配った様子はない。陽明学を起こした王陽明は兵術を学んだこともあったようだが、中斎は孔子と孟子の説くところを専ら取り入れたようだ。

挙行前に同憂の士を集め、堅い結束力でまとめ上げる組織力も甘いと言わざるを得ない。

衛の霊公が或る時孔子に兵法を質問したところ、孔子は「祭祀のことは学んだが、兵法のことは学んでいない」と答えた。
つまり兵法のことは全く知らないと述べたのである。関心も無かったようだ。

孔子の儒学が主張するのは性善説であり、仁と義を人間社会に行き渡らせれば、国家間の戦争を回避できるというものである。
孟子も同様の主張をしている。このような思想を信奉している限り戦略や戦術に思いを巡らすことはないであろう。

現実の社会はそのように甘いものではない。むしろ荀子や墨家の主張のほうが現実的であると言える。

それに加えて、中斎は必ずしも孔孟思想を遵奉し体現したとは言えない。窮民に現金引換札を配布した2月上旬と、乱を計画している時期と重なっており、更に引換札を渡す際に天満に火事あらば必ず大塩先生のもとへ駆けつけよと申し渡している。つまり条件付きでカネを渡していた。

そして乱の最中の過程でも必ずしも窮民のことを考えていない。
乱勃発の結果、大塩焼けと称する3389軒焼失の大火災になり、市民は着のみ着の儘で逃げた。そのうえ20日夜から21日正午にわたり激しい風雨に見舞われたので、多くの幼児、病人、老人、産婦などに著しい窮状を齎した。そして焼死者は270人以上にも達した。

窮民救済のために世直しとの目的を掲げながら、市民の住居にも火をつけて回ったことは乱の趣意に著しく背馳している。

さらに飢饉のさなかで大火が発生したゆえ米麦大豆などの物価が激しく騰貴し、1朱を配られてもそれを遥かに上回る経済的困窮に襲われた。
加えて乱後疫病が流行し、行倒れ人も含めて死者が夥しかった。
結果に於いて、孔子が唱道した「忠恕」という理念を欠いていたと言える。

思うに乱は中斎の直情径行と猪突猛進のような性格がもたらした暴発と言える。

知行合一という理念のもと、世の不合理を看過出来ないとして行動に移したのは立派である。

その行動には自分の利益のためとか、権力者に対する怖れなどはない。その点で稀有な人物と言える。

しかし計画が疎漏なうえに、乱の終末における落としどころを考えていない。

中斎の行動に対し、諫めるとか反対の意見を述べる弟子もいた。
それらの者に対し中斎は斬殺か棒で殴るという行為で報いた。

諫めた為に斬殺されたのは宇津木矩之允である。
吉見九郎右衛門が述べたところでは、中斎は自分の意に従わない者は、長幼の別なく棒で殴りつけたとある。

中斎は人に何かをやらせる時、脅迫する癖があるようだ。
入塾規則はやむを得ないとしても、檄文や美吉屋五郎兵衛宅に身を寄せる時、そして乱当日には白刃を振り回しながら、誰でも味方に加わらなければ、斬り殺すと周囲を脅しつつ進んでいる。

中斎は自分の直属の上司でも、譜代の家来ではなく身分が低いので、大事を起こすには当てにならないと言っている。
つまり権力は世襲によって握られ、たとえ能力があっても自らが驥足を展ばす余地はないと指摘している。

たしかに人間の組織をまとめ運営してゆくには階級が必要だが、世襲ではなく機会の平等を確保すべきである。

そして親鸞が説くことには、彼の宗門に帰依すればたとえ虐げられた者でも 来世は極楽浄土の仏にすると言うので多くの人々が多額の金銭を本願寺に寄進している。
有無の不確かな来世を約束しても斯くの如きであるゆえ、現世で直ちに幸せにすると聞けば、何ごとがある時500~1000人の必死の人数を得られ筈だから、それを中斎自身が指揮すると述べている。見通しが少々甘いのではあるまいか。

仮に千人の庶民が集まったところで、軍事訓練を全く施されていないので単なる烏合の衆の域を出ない。 

中齊のような人物は、哲人政治家として国政を任せると適任かもしれない。哲人政治は遅かれ早かれ腐敗するというのが定説である。

しかし中斎は他人に苛烈だが自分にも厳しく、少なくとも中斎一代は清廉な政治が行なわれる可能性がある。

鑑みるに自分も属する理不尽な統治体制に対するやり場のない憤りと焦慮がかかる暴挙を決行した理由と考えられる。

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