赤報隊と渋谷総司



私の住んでいる千葉県鎌ヶ谷市出身で、歴史に名を刻んだ数少ない人物に渋谷総司がいる。そのような関係で個人的に関心があり、その事績を調べることにした。

幕末に官軍先鋒隊として編成された赤報隊は、それ以前に江戸薩摩藩邸において結成された浪士隊を母体としている。浪士隊の統率者は相楽総三であり、その幹部で「使番」を務めたのが渋谷総司であった。

相楽総三は天保10年(1839)に生まれた。生家は現在の茨城県取手市の豪農で商売もしており、江戸にも屋敷がある富裕な環境で育った。
幼い頃から国学と兵学の学問に優れ、20歳の時には門人が数多く居たという。
慶応2年(1866年)、28歳にして京都に上り志士活動を続けた際、西郷隆盛、大久保利通の知遇を得る。

渋谷総司は 弘化3年(1846年)佐津間村(現鎌ヶ谷市の一部)の名主 渋谷家の二男として出生した。

8歳~11歳に 小金町(現松戸市)の儒学者一月逸平に師事した。

11歳以降は 芳野金陵のもとで儒学を学ぶ。同時に北辰一刀流千葉道場で剣術も学ぶ。

文久3年(1863)に芳野金陵の息子である新一郎とともに諸国を回り、尊皇攘夷派の志士と交流し、その間に相楽総三と知り合う。

渋谷家は市内で有数の旧家である。子孫は脈々と続いており文政9年(1826)に建築された家は今でも本家の住居として使われている。つまりこの家は総司が生まれる20年前に建てられた家で市内最古である。

因みに総司の叔母は渋谷家から出て、現在の市川市行徳に住んでいた石井平左衛門に嫁しており、その息子が榎本武揚である。したがって渋谷総司と榎本武揚は従兄弟の関係になる。 (鎌ヶ谷市郷土資料館資料による)

赤報隊結成に至るまでの政情


倒幕の密勅

密勅の日付は、薩摩藩に下されたものが慶応3年(1867年)10月13日付、長州藩に下されたものが同月14日付で、岩倉具視から薩摩藩と長州藩にひそかに渡された。これにより薩摩藩・長州藩は大規模な軍事動員の動きを見せた。

この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の誅戮を命ずる勅書も出されている。

大政奉還

慶応3年(1867年)10月14日 
慶喜は薩長の動きに危機を感じ大政奉還を願い出た。しかしこの時点でも諸藩への軍事指揮権を有している。将軍職の辞職が勅許され幕府が廃止されるのは12月9日の王政復古の大号令においてである。

大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにあった。つまり大政奉還しても朝廷に政権担当能力は無いと見て、結局慶喜自身が中枢としての地位を失うことはないと内心考えていた。

加うるに大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあった。しかし薩摩藩らから見ると最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁としての地位を失っていなかった。


大政奉還後の政情
大政奉還により幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり、その後慶応3年(1867)10月21日に 討幕の実行延期の沙汰書が出され、討幕の密勅は取り消された。

更に慶喜は薩長の動きを制するため、慶応3年(1867)10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。しかし朝廷は国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付で、緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。

王政復古
慶応3年12月9日に公家の岩倉具視が王政復古の大号令を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

小御所会議 
慶応3 (1867) 年 12月9日夜 つまり王政復古の号令があった日の夜に執り行われた新政権樹立後の最初の首脳会議で,この会議での主要議題は、岩倉と薩摩の主張する徳川慶喜の辞官納地とその後の処遇だった。

会議に出席していた土佐の山内容堂は、徳川慶喜を議長とする諸侯会議の政体こそ新政権のかたちとして望ましいとし、この場に徳川慶喜の出席を求めて岩倉と対立したが、結局岩倉と薩摩の強引さに負けて徳川慶喜の「辞官納地」(慶喜の内大臣辞任と幕府領半分の返還)が決定した。

そして禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。これによって長州藩藩主・毛利敬親は、明治天皇により朝敵の認定を解除された。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため、京都にある二条城から大坂城に移った。

慶応3年12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難し、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂・松平慶永ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上要求は撤回され、新政府の財源は諸侯一般に経費を課す名目に改められた。要するに慶喜は権力の座から完全に降りるつもりはなかった。

赤報隊誕生までの経緯

西郷隆盛は慶喜の内心を推し量り、武力による倒幕こそが新政府の基盤安定をもたらすと考えていたが、大政奉還の結果武力攻撃する大義名分を失った。

そこで西郷が指示して江戸の治安を攪乱し幕府側を挑発して反撃を誘い、それを理由に新政府側が旧幕府側を攻撃する大義名分を得ようとし浪士隊結成に至った。

赤報隊の前身は浪士隊である。慶応3年10月に相楽総三は西郷隆盛の意図のもとに江戸薩摩藩邸で浪士隊を結成した。

西郷の指示により、薩摩藩の益満休之助と伊牟田尚平、そして草莽の志士である相楽総三が中心となって、江戸の薩摩藩邸を拠点とし同志を募った。隊士の募集は各地の同志に檄文を送ったほか、江戸市中の浪人や与太者に声をかけて約500名が江戸芝三田の薩摩藩邸に参集し、それを浪士隊と命名した。渋谷総司は「使番」として幹部になっている。

江戸浪士隊の役割

江戸市中で浪士隊が乱暴を働き旧幕府側からの反撃を誘発させて、それを契機に武力倒幕を企んだ。つまり浪士隊は新政府の手先としての汚れ役に使われたのである。

慶応3年11月より西郷隆盛の密命により浪士隊が江戸市中で騒擾を起こした。相楽らは江戸で放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。

慶応3年(1867)12月9日 王政復古の大号令が発せられた。
これによって江戸幕府の廃止、明治新政府の樹立が宣言された。しかし慶喜は内心では権力の座から完全に降りるつもりはなかった。

薩摩藩邸焼き討ち事件
 
薩摩藩主導による江戸市中における乱暴狼藉に対し、譜代大名の庄内藩が慶応3年12月24日に薩摩藩邸焼き討ち事件を起こした。この事件は新政府側の薩長が旧幕府側に対して武力行使を実行する大義名分を与えた。

鳥羽伏見の戦い勃発
江戸の一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。その結果慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表を提出し、慶応4年1月3日(1868年)薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢を京都へ向け行軍させた。

しかし3日後の1月6日夜、早くも慶喜は自軍を捨て、夜陰に乗じて船に飛び乗り江戸へ逃げた。慶喜はさまざまに策謀を巡らすが胆力の無い男だった。そのうえ幕軍を取りまとめて指揮する優秀な人材を欠いていた。

そして何よりも新政府側に錦旗が掲げられたことにより、旧幕府軍側が賊軍の立場に陥り、水戸学の本拠である水戸徳川出身の慶喜が慌てふためいて逃げ出したというのが真相である。慶喜の逃亡により鳥羽伏見方面の戦争は終結した。

赤報隊結成

慶応4年(1868)1月5日 相楽総三の一党は江戸薩摩藩邸焼き討ち事件で襲撃された後、辛くも江戸を脱出し京都の薩摩藩邸に入る。

慶応4年(1868)1月10日 薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て近江国松尾寺村金剛輪寺(現滋賀県愛知郡愛荘町)で官軍先鋒部隊として赤報隊と命名され結成される。その統率者として公家の綾小路俊実、滋野井公寿が就任した。

隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられ、一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。

このうち一番隊は相楽総三を隊長とする江戸薩摩藩邸に集まった浪士隊の流れで、鎌ヶ谷市佐津間出身の渋谷総司はこの隊に属し再び「使番」として幹部の役についた。

赤報隊士の多くは浪士、豪農、神官などの在野の勤王志士だったが、無頼漢の類も多かった。

その目的は京より東の諸藩に勤王を誓わせ、武器や資金を供出させ、併せて人心を安定させ民衆の支持を得ることとされた。

一番隊の独断専行

慶応4年1月14日に相楽総三自らが建白して太政官に年貢半減令を採用された。
赤報隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り桑名への進軍を命令された。しかし相楽の一番隊は年貢半減令を掲げて独断で東山道を信州方面に進軍した。

二番隊・三番隊は総督府の命令通り東海道行きを決める。

慶応4年1月27日 財政難を危惧する新政府は年貢半減令布告を撤回した。その結果相楽一党が相変わらず年貢半減令を掲げて東山道を進んでいるのは不都合なので、慶応4年 1月下旬に新政府より相楽の一番隊へ京都への帰還命令が発せられた。しかし一番隊はこれを拒否しさらに進軍した。

その際 相楽総三は官軍赤報隊一番隊を「嚮導隊」へと隊名を変更している。
その後相楽は相変わらず総督府の指示に従わず独断で行動を続行し、碓氷峠を目標に進軍する。 

以上の結果、慶応4年1月27日 嚮導隊を偽官軍とする布告が出される。滋野井、綾小路、岩倉の家来と称して徘徊、押借りする者をすべて捕縛し、手向かいするならば討ち取っても差し支えなしとした。 新政府の首脳は嚮導隊を統制出来ず面倒になったため指図したものと考えられる。
その時に新政府側が東山道諸藩に出した文書が国立国会図書館にあるので、その内容を以下に示す。


別紙之通被 仰出候間 相達候事

東山道鎮撫総督府  執事
戊辰正月二十七日

近日滋野井殿 綾小路殿家来ト唱ヘ 市在へ徘徊致シ 米金押借リ 人馬賃銭不払者モ不少趣全無頼 賊徒之所業二而 決シテ許容不相成候  向後右様之者有之者捕置 早速御本陣へ可訴出様 若手向ヒ致シ候者ハ 討取候共不苦段被仰出候事
但 此後岩倉殿家来等ト偽り 右等之所業ニ 及候者有之哉モ難計 聊無用捨同様之取計可致旨 御沙汰候事

東山道鎮撫総督府 執事

東山道諸国 宿々村々役人中


これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになる。東山道軍は信濃各藩に嚮導隊捕縛の命令を下し、2月17日に追分宿で小諸藩などに嚮導隊は襲撃され惨敗した。

慶応4年3月1日 相楽総三は今まで無視してきた総督府からの召喚にようやく応じて出頭し、下諏訪にて東山道軍総督府に捕縛される。

慶応4年3月2日 渋谷総司など他の 嚮導隊士も捕縛される。

慶応4年3月3日 相楽総三とその幹部7名(渋谷総司を含む)計8名が下諏訪にて処刑される。

嚮導隊に対する処刑の理由

総督府が発令した「罰文」と称する死刑執行命令書が国立国会図書館に保存されているのでそれを以下に示すことにする。

罰文発令者 東山道総督府執事 
発令日 慶応4年3月3日 
死刑対象者 相楽総三とその幹部七名(渋谷総司を含む)  
処刑執行日 慶応4年3月3日 


罰文
右之者御一新之御時節ニ乗シ、勅命ト偽リ、強盗・無頼之徒ヲ集メ 、官軍先鋒嚮導隊ト唱エ、総督府ヲ欺キ、勝手ニ致進退、剰へ諸藩へ応接ニ及ヒ、或ハ良民ヲ劫掠シ、莫大之金ヲ貪り、種々悪業ヲ相働、其罪数ルニ遑アラス、此儘ニ打捨置候而ハ弥以賊徒横行シ、遂ニ天下之大憂ヲ醸シ、其勢制スへカラサルニ至ル、依之誅戮梟首之上、遍ク諸民ニ知ラシム者也



一方的に処断する側の文書内容が必ずしも全て正しいとは思えないが、全くの虚偽とも言えない状況だった。
罰文に書かれている通り、相楽総三が処刑されたのは当然と思われる事実がある。

最も悪質な事実は 新政府の命令に反し独断で東山道を進んだことである。
相楽たちの赤報隊の度重なる独断行動を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じた。

しかし相楽たちは命令に従わなかった。そればかりか相楽総三は官軍赤報隊一番隊を「嚮導隊」へと隊名を変更し、新政府の指示に従わず、そのうえ失効した年貢半減令を掲げて独断専行を続行した。

これらの組織上部からの命令に従わないばかりか隊名を独断で変更し、自儘な独断行動をした事実は許されることではない。それは古今の軍隊においては勿論のこと、現代の民間会社組織でも許されはしないであろう。

そのうえ小諸藩をはじめとする近隣諸藩の通報にある通り、官軍の名を用い民衆から勝手に金銭を徴収し、時には略奪行為までしている。これを放置しては新政府に対する評判が著しく悪くなる。新政府側としては強行手段を執らざるを得ない。

これらの行為により、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになった。

なお二番隊隊長の鈴木三樹三郎は新政府の命令に従い京都へ戻ったが、連袂疑惑を受けて一旦は牢屋に入れられた。その後釈放され、のちに徴兵七番隊に編入された。

鈴木三樹三郎が許されたのは常陸国志筑藩出身で士分であったこともあるが、元新選組隊士で、のち御陵衛士に移った人物で命令下達の組織に馴染んでいたものと見える。徴兵七番隊に属したあと戊辰戦争で北越や会津において戦った。 その後鈴木三樹三郎は警察畑で働いたあと大正8年83歳まで生きた。

相楽総三は鈴木三樹三郎のように新政府の指示に忠実に従っていれば別の展開があったかもしれない。

三番隊の隊長は油川錬三郎であり水口藩士や江州出身者が中心だったが、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。

相楽の釈明を聞くこともなく処刑が速やかに行われた理由の一つは、嚮導隊の隊長である相楽総三の身分がどこの藩士でもなく百姓ゆえに、処刑したところで何処の藩からも抗議が出る虞がないことだった。

相楽総三は裕福な環境に育ったゆえか世間を見る目が甘かったようだ。軍隊などの階級社会における処世術を身につけていなかったとも考えられる。

そして新撰組のように厳正な隊規を作り隊士に対して苛烈に適用しなかったことも大きな原因である。もっともそのためには腕力で押さえつけなければならないが、それだけの力が相楽総三とその幹部に有ったか疑問ではある。

無頼の徒の寄せ集めでは暴行や略奪行為が起きることは必定である。もっとも江戸での浪士隊そのものが、そのような行為を遂行するために結成された経緯がある。その余韻を引きずった一番隊の風紀が乱れているのは当然の成り行きかもしれぬ。

そもそも赤報隊の前身の浪士隊の企画そして実行命令は西郷隆盛が出したものである。
赤報隊結成についても西郷が深くかかわっている。

処刑当時の西郷の威望と発言力は維新政府において随一であったので、処刑に関してひとこと発言すれば赤報隊に関しての扱いが違ったものになったはずだが西郷は黙殺している。

結果として相楽一党は薩摩藩の汚れ役として使われ、用が済むと殺されたことになる。維新当初の新政府は財政事情が悪く、そのうえ人手も足りなかった。赤報隊はそのような事情の元で手先として利用され、意のままに動かないと見るや新政府に始末されたと言える。

しかしその後昭和3年11月10日に昭和天皇即位の大典の際、相楽総三に正五位、渋谷総司には従五位を贈られた。 そして翌年の昭和4年4月24日に靖国神社に合祀され招魂式が執り行われた。
これによって汚名が雪がれたことになる。

以上                 目次へ戻る