刀剣と太平洋戦争



日華事変から太平洋戦争においては、歴史上日本刀が実戦に使われた最後の戦争である。
当然ながら刀剣は主力武器ではなかったが、それにしてもハイテク兵器の進歩が著しい今日において、今後刀剣を実戦に携えることはあるまい。

もっとも鳥羽伏見の戦いで、負け戦から生還した当時の新撰組の土方歳三でさえ、「もう刀槍の時代ではない」と述懐していたが、その後太平洋戦争まで軍刀として使われたのは、ひとつには士気の精神的象徴としての意味もあったのかとも思う。

以下は従軍し、主力武器ではないにしても、実際に日本刀を使って戦った最後の世代の老人からの聞き書きである。その老人は中国戦線から奇跡的に無傷で生還し、長寿を全うして既に世を去っている。

強行軍ともなると、毎日50キロぐらい行進し、そのような時、軍刀拵えは重くて体力のある者でも身にこたえた。むろん38式歩兵銃や弾その他も身に付けており、総重量はかなりに達する。その装備で水に飛びこんだ時に何人もの溺死者が出た。

行軍中に疲労しきった戦友に肩を貸したなどという美談が語られたことがある。しかしそのようなことは実際には有り得ず、健康な者でも自分ひとり部隊に遅れずに行軍するのが精一杯だと言っていた。
部隊は命令で動いており、弱い兵を顧慮して行軍することは全くないので、落伍兵は部隊からすこしづつ遅れ、やがて見えなくなって戦場に置き去りにされた。
本隊から離れ、敵地に置き去りにされることは即ち死を意味する。

軍刀は現存しているものをみても短く、66センチ止まりぐらいである。長いと匍匐前進の時、足に絡みつき都合が悪い。

刀の切れ味は想像しているより斬れない。当時の支那兵は冬期に厚い古綿の入ったどてらを着ていたが、岩陰から飛び出してきた中国兵の肩口を斬りつけたところ、布が裂けて古綿が飛び出ただけで、相手は驚いて逃げ去った。もとの岩陰に隠れる時、相手の敵兵は片手を上げて挨拶をするというか、つまりからかう仕草を見せて消えたから、怪我もしなかったのであろう。

その時の軍刀の刀身は、2尺余の備前祐定とのことで、永正備前の本物だと本人が言っていた。

おしなべて備前刀は、炭素量が少なく地金が柔らかであり、そのため刃紋の匂い口も淡いものが多い 。姿が良く手持ちも軽いが、斬れ味は疑問である。

素肌ならともかく、厚い生地の外套や固くなった厚い古綿の入ったどてらなどを着ていると簡単には斬れない。

その一方 銃剣は殆ど手ごたえもなく敵兵の胸に吸い込まれる。ただし刺された敵兵は、すさまじい握力でこちらの銃身を握るから、抜くのに苦労する。

刀も薙ぐより突くほうが危険であり、致命傷になる事が多い。

戦地の支那には、よく野犬が群れていた。野犬は兵隊が集まっている場合は襲ってこないが、ひとりで隊から離れた時などに、群れをなして襲って来る。むろん人間を食うためである。そんな時 刀を振り回すのだが、頭から尾に向かって薙いでも斬れず、逆から刃を入れなければ駄目とのことだった。犬の毛並の順目は存外切れないらしい。

日本軍は戦域を広げすぎた為に、局地の兵員が極端に少なく、支那においては点しか制圧できなかった。それゆえ日本軍は常に敵の大軍に取り囲まれている状況だった。

兵隊達は文字通り明日の命さえ定かではなく、新兵が死ぬと「奴は幸せだ」と古参の兵は言った。なぜなら死ぬことは必定であり、早く死ねばそれだけ苦労が少なくて済むと言うのがその論拠である。

そのような環境の中で、他の部隊などと酒を飲む機会があると、よく喧嘩が生じた。

将来の明るい希望などは全く無いので、精神的に荒みきっており、それに血を見ることに何も感じなくなっているうえ、武器を携帯しているので極めて危険であった。刀は素肌に斬りつけるのはかなり有効で、手首が大根のように斬り落とされるのを見た。

もっとも刀を振り回すのは良いほうで、腰に下げていた手榴弾を足元に叩きつけた者もいた。喧嘩相手と周囲の兵隊が何人も死んだが、当然ながら自分も死んだ。

そんな日々の中で、他の部隊の兵士から理不尽な喧嘩を売られた事がある。相手は軍刀を抜いており、こちらは無腰だった。相手は酔っており、話してわかる相手ではない。素手で刀に対応できるはずも無く、謝る理由は無いのだが、男の面子を捨てて頭を下げた。しかし目は相手の刀から離さなかった。
相手にはいくらか理性が残っていたのであろう。こちらの態度を見て、剣先を下げた。その瞬間懐に飛び込み相手の利き腕を掴んだ。飛び込む瞬間に剣先を少しでも上げられたら、こちらは串刺しになるわけであり、あとになって考えるとぞっとしたと語っていた。

その人は柔道有段者で、昔の柔道は今のスポーツとしての柔道と違い武術であり、逆技、関節技を主としており、相手の腕を掴めばこっちのものとのことだった。軍刀を奪い取り、近くのクリークに抛り込んで事は終わった。支那のクリークは深いそうである。そのあと軍刀がどうなったか知らない。

なかには気の毒な兵隊もおり、妻子をおいて出征してきた中年の兵士は、支給された軍票を貯めこんで妻子の為に「貯金」をしていた。しかし当然のようにその兵は程なく戦死し、泥と血にまみれた手の中には妻子の写真が握られていた。

切腹しただけでは簡単には死なない。苦しみながら半日は生きている。左胸に貫通銃創を負うと、致命傷となることが多いが、右胸は激しく咳をしながらも助かることがある。むろん戦地では、医薬品どころか食料も十分ではない環境なので、手当てなどはできない。

因みに日本軍は弾薬も乏しく、資源回収のため撃ったあと薬莢を拾うように命令されており、腰にそれを入れる袋を下げていた。それゆえ弾雨の中で薬莢を拾い集めているという有様だった。
昭和16年(1941年)12月8日対米開戦を支那の戦地で知らされたが、現場の兵士は皆その無謀さにあきれていた。

帝国陸軍の強さはまさに圧倒的であった。通常 支那兵の数が日本兵より2~3倍の時は、支那軍は攻撃してこないそうである。戦闘しても勝つ見込みが無いからである。

日本軍にとっても敵が近くに見えれば即戦闘になるわけではない。戦闘になれば多かれ少なかれ必ず死人が出る。兵士にとっても死ぬことを避けたいので、上部からの命令がなければ殺し合いはしないそうである。それゆえ日本軍は近くに2~3倍の敵兵を望見しても、ふんどしの洗濯をしていた。

日本軍に十分な兵站があれば、世界最強の軍隊だったことはまちがいない。その強さの源泉は軍律にあった。新撰組と共通する苛烈な内部規律がその強さを支えていた。
しかし誤解の無いように申し添えるが、私は太平洋戦争を肯定しているわけではないし、日本軍の軍律を賛美しているわけでもない。

軍律の厳しさは、兵士の命を軽んじる形で如実に表れた。兵士の命より馬の方が遥かに価値があると言う話はよく知られている。日本軍ほど兵士の命を軽んじた軍隊は無いのではあるまいか。

戦友が歯の治療のために軍医の所に行ったところ、奥歯の治療で患部が良く見えないとの理由で、頬を大きく切開し外側から治療した。戦友は「ひどいことをしやがる」と言っていたが、軍医のほうが階級が上で文句は言えなかった。兵士に対し単なる安価な消耗品との認識しかしていない証左である。

ある時、台湾海峡を輸送船で部隊が移動しているとき、魚雷が船腹に命中し、すさまじい爆発音と振動が船体を襲った。 ・・・と感じたのは実は誤認で、遠くで爆雷が炸裂しただけだったのだが、歩兵の連中は海の経験と知識が無いので動転し、数人が海に飛び込んだ。魚雷が命中すると、鉄船の場合数分で沈没するとの知識だけはあったのである。船は何事も無く進み停船することはなかった。慌てて飛び込んだ兵士は、そのまま海中に置き去りにされた。頑張れの声とともに、浮き輪としてドラム缶が投げ込まれただけであった。

乗っている船が攻撃を受け、沈没したこともあった。海に飛び込むと水面には厚く重油が堆積しており、臭いと激しい刺激で目もあけていられない状況で、しかも重油に火がついてあたりは火の海になった。更に悪いことは海中に引きずり込まれた浮遊物が浮上してきて、水面高く跳ね上がり、それが落下して泳いでいる兵士を直撃し死に至らしめた。

その人は水戸連隊に属していたが、帝国陸軍の中でも特に強いのは六師団(熊本)だった。あるとき土塀に囲まれた集落に立て篭もり、その周囲の広大な中国大地が見えなくなるほどの夥しい支那兵に取り囲まれ攻撃されたことがあった。いかに強いと言っても、これでは物理的攻撃力が違いすぎ、戦友達は次々と被弾して、あと30分で玉砕という状況に追い込まれた。

その時、敵の一角が楔形に開くのを見た。そしてその楔形はみるみるうちに大きく開き、その先頭に六師団の軍旗が翻っていた。なんと六師団は1発の弾も撃たずに、夥しい敵兵の中を強引に分け入って救援にきたのである。六師団の威名は敵兵の間にも轟いており、その名前に恐れて敵兵が避けたのであった。これは実話である。

傷を負って動けなくなると、それは即ち死につながる。部隊が移動するとき、ついて来られない者は、敵兵が取り囲んでいるその場に置き去りにされるからである。置き去りにされる兵士には、手榴弾1個が渡される。自決の為である。

しかし兵器で殺し合いをしている戦場で、死を免れたとしても、怪我もしないなどは、稀有の僥倖としか言いようが無い。

戦場はこの世の地獄である。四肢を吹き飛ばされて失い、達磨のようになっても生きていた戦友がいたが、その戦友は甕に入れられていた。
ある戦友は爆弾の破片で腹部が裂け、腸が泥の上に飛び出したのを、懸命に自分で拾っていた。

その人は何人もの戦友の死に立ち会った。人は死ぬときに深い穴に引きずり込まれる感覚を味わうようだ。死に瀕した戦友は誰もが「しっかり掴まえていてくれ」としきりに言っていた。相手もこちらを掴んでいたが、やがて握る力が弱くなり死んでいった。

毒ガスで攻撃を受けたことがある。無精で髭を剃らない兵隊は、毒ガスマスクが顔に密着しないので死に至った。

兵隊は皆鉄兜をかぶっているが、そんな物は全く役に立たない。兜の頭頂部が一番鉄厚があるが、歩兵銃の弾は簡単に貫通するそうである。せいぜい跳弾には有効ではないかと言っていた。

コレラ菌を上流で流され部隊に蔓延したことがある。120人位いた兵隊は友軍に取り囲まれ、軍医の命令で隔離された。弾が飛んでこないので良いなどという者もいたが、多くの戦友は激しい下痢に襲われ脱水症状で一晩で死んだ。最終的に生き残ったのは20人ぐらいだった。
「良く生き残ったな」と軍医が驚いていた。その人は胃酸過多で常に胸やけがしていたそうで、そのため助かったのであろう。コレラ菌は酸に弱いことが知られている。

今日死ぬか、明日死ぬかという極限に日々身を置いていると、奇妙な出来事がたびたび起こった。これらの聞いたこと全てに稿を割く気は無いが、思うに幽明は截然として境界があるとしても、それは直ぐ目の前に存在するようである。普段の生活において、我々が気づかないだけである。

新撰組屯営では粛清された隊士の幽霊話が残っているが、その老人も戦地でたびたび幽霊を目撃している。
行軍部隊が野営する時、本隊から6~7キロ位離れた八方に歩哨を立てる。本隊が夜間にいきなり攻撃され全滅しないようにするためである。歩哨は敵影を確認したら38式歩兵銃を発射して本隊に知らせることになっている。38式歩兵銃は遠くからでも聞こえ、発射音に特徴があり判るという。

昼間の行軍で疲れきっているが、当番で夜通し敵地の真っ只中に一人立つわけである。むろん何か事があれば命は無く、歩哨は捨石であり、たとえ一人の兵が死んでも本隊が助かれば良いというのが帝国陸軍の論理である。
そんな時の歩哨の兵士は、心細い事限りなく、たとえ幽霊でもいればほっとするという。幽霊は危害を与えないので害はなく、それに反して 生きている人間は危険であると語っていた。

ある晩、そのひとが当番で歩哨に立った時のことである。薄明かりの夜中に、数百メートル先を敵兵が隊伍を組んで行軍しているのを見た。しかし発砲して本隊に知らせるべきか逡巡した。はじめそれを見た時、疲れと眠気による幻覚かと思い、心を静めてもう一度確認した。やはり敵軍の部隊が音も無く行軍していた。

逡巡の理由は、その敵兵部隊が本隊の野営地とは違う方向に進んでいたこともあるが、なによりも様子が変なのであった。
通常歩哨に立つ前に、明るいうちに周囲の地形を探査して記憶にとどめて置くことになっている。その敵兵部隊が行軍している場所は、沼地であり人が歩けるようなところではなかったはずである。朝になって現場を確認すると、やはりそこは沼地で人が歩いて渡ることはとうてい不可能であり、周囲に大勢の足跡などの痕跡も無かった。

幽霊は危害を与えないので害は無いとは言っていたが、殺される事が無いだけで害はあるようである。
敵兵が潜伏している集落を攻撃し、そこに野営した時のことである。屋根が日本軍の攻撃で穴だらけになった家に兵士数名で寝た。屋根は落ちているが、それでも外の露地に寝るよりましと言うことだった。

支那人の家は土間の片隅に木製の寝台が置いてあり、その上で寝るそうである。順序として兵隊の中で上官の者が寝台に寝た。ところが少し経って上官が土間に降りた。苦しくて寝ていられないということだった。土間より寝台の方が寝るのに都合がよいので、代わりにその人が寝台を使った。
そしてまどろんでいる時、寝ている自分の胸の上に何者かが馬乗りになり、両手で首を締め付けてくるので苦しくて寝られたものではないという有様になった。それゆえその人も土間に降り、他の者が寝たがやはり同じ結果になった。そして寝台の具合が悪いと言うことで皆の意見が一致し皆土間で寝た。

菊池寛の随筆にも旅行で泊まった旅館で同じような体験をしたことが書かれている。

最後に記すが、 我々の世代以降の人々は、戦争という行為の中で何が行われるかを冷厳に見つめ、知悉すべきである。 

人間の歴史は即ち戦争の歴史であり、人類の営みには戦争という行為が組み込まれていると考えざるを得ない。現在も地球上には戦乱にさらされている地域が有る。今後も人類において戦争が根絶することはない。

侵略国家に対し、ひたすら友好と話し合いの姿勢をとり武器を持たなければ、略奪と殺戮に見舞われ国家は破滅する。スペインに侵略されて滅亡したインカ帝国がひとつの好例である。

平和と自由を確保する基盤は軍備であるとマキャベリの「君主論」に書かれているが正しい認識と思う。
話し合いをするにしても、著しい武力の格差があれば対等の話し合いは難しい。

現今においては、覇権主義国家は国際世論によって糾弾され、かってのように放任されはしない。
しかし強制力のある上位組織を持たない国際社会の場においては、同盟を形成するとしても、基本的には自力救済で解決するより他に方途はない。国連の有効性は甚だ疑問である。

ロシアがウクライナに侵攻した事件に対し、国際連合とその一機関である国際司法裁判所が実質的に無力であることが再認識された。

戦争をしてはならない。たとえ3度の食事が1度しか摂れないような窮境に国家が陥っても戦争をしてはならない。なぜなら戦争の悲惨さに比べれば、その方がまだましだからである。
1941年に地球規模の大戦が勃発するに至った要因はいくつかあるが、そのひとつは1929年の世界大恐慌であったことが知られている。

そして こちらから仕掛ける侵略戦争をしてはならないが、相手から仕掛けられた戦争に対しては、常々軍備を整えておき、好むと好まざるとにかかわらず、敢然と立ち向かわなければならない。 
自由と平和を希求する独立国家の要諦はそれに尽きる。

国際社会において公権力が無い以上、主権を守るのは個々の国々の軍事力である。

しかしながら、世の中には多様な考えがあるようだ。
司馬遼太郎氏は歴史に詳しく、且つ人間に対する洞察力があると評価されているが、氏の著作 「日本人を考える」司馬遼太郎対談集 文芸春秋刊 29~30頁に以下の記述がある。

戦争をしかけられたらどうするか。すぐ降伏すればいいんです。
戦争をやれば百万人は死ぬでしょう。レジスタンスをやれば十万人は死にますね。
それより無抵抗で、ハイ持てるだけ持っていって下さい、といえるぐらいの生産力を持っていればすむことでしょう。
向こうが占領して住みついたら、これに同化しちゃえばいい。
それくらい柔軟な社会をつくることが、われわれの社会の目的じゃないですか。

人には様々な主義主張があるという一つの例である。 目次へ戻る