新撰組随感


慶応4年(1868)4月3日未明、下総流山の新撰組仮本営である長岡屋を、有馬藤太が率いる官軍が包囲し射撃した。

新撰組の方も応射したが、程なく射撃をやめ、近藤勇は投降した。

この時 官軍から名を問われ、近藤は 「大久保大和」 と名乗っている。但し この名はとっさに思いついた全くの偽名ではない。新暦換算で遡ること一ヶ月前に新撰組の名を廃し、甲陽鎮撫隊として組織した時、近藤は若年寄格となり、大久保 剛(たけし) と改名しているからである。

もっともこれは改名というより、表向き恭順を示すために近藤勇ではまずいので、偽名を名乗ったといういきさつがある。
しかし「大久保大和」と名乗ることは、偽名に更に偽名を重ねたことになる。

薩摩人の有馬は、目の前の人物が近藤勇である事を分かっていたが、深く追求する事はせず、すべてを承知の上で近藤を丁重に遇している。

しかし近藤が有馬の手を離れ、囚人駕篭で板橋に監送されると状況が一変した。

板橋でも、奇妙なことに、近藤はあくまで自分を大久保大和だと言い張っている。

その時、以前に新撰組から伊東甲子太郎の率いる御陵衛士に移り、それが原因で油小路において新撰組の襲撃を受け、辛うじて逃げ切った加納道之助が現れ 「近藤さん」 と声をかけたので、正体が露見してしまった。

 「君がいたのではしょうがないな」 そう言って近藤が苦笑したと伝わっている。

なぜ自らを隠し通したのであろうか。 命を惜しんだと言われても仕方あるまい。

みずから定めた苛烈な局中法度の基幹である「士道ニ背ク間敷事」との掟に背馳していることは明らかであり、その掟を以って多くの隊士を粛清という名の死刑に処した人間のとるべき態度ではあるまいと思う。
そもそも百姓出身の男が、士道などと声高に言い立てるのはいささか面妖だが、京都守護職お預かりという立場になって以来、正式な士分に成り上がってはいた。

彼らは出自から来る劣等感を打ち払うためにも、士道のありようをストイックに理想化し体現した。その点で、先祖代々武士の幕府旗本が惰弱を極めていたのは皮肉な事実である。

近藤は流山で戦って死ぬべきであった。

板橋での近藤勇は 土佐人である谷干城の裁断によって、百姓町人並の斬首刑となり、35歳の命を終えた。坂本竜馬暗殺の嫌疑を受けており、事実とは違っていたのだが、その恨みも有った様である。斬首は岡田藩の藩士 横倉喜三次が務めた。

封建体制末期の混乱の中で百姓から身を起こし、甲陽鎮撫隊では若年寄格といういわば大名の身分まで上りつめたが、死に際で元帰りしたことになる。

流山での捕縛から遡ること新暦換算で約3ヶ月半前、慶応3年(1867)12月18日伏見街道墨染のあたりで、馬上の近藤は御陵衛士の一団から報復攻撃を受け、篠原泰之進が発砲した弾で右肩に貫通銃創を負った。目撃者の話によると出血多量だったという 。

翌月の1月3日に鳥羽伏見の戦いが勃発し、1月5日には幕府軍の敗勢が瞭然となった。恐怖に駆られた徳川慶喜は1月6日の夜、部下の幕軍に一言も告げずに、さながら鼠賊のように夜陰に乗じて大阪城を抜け出し、大阪湾に停泊していた船に飛び乗って江戸に逃げ帰った。

置き捨てられた新撰組も海路江戸に逃げ、品川に上陸したあと近藤勇は神田在住の医師、松本良順宅に赴き治療を受けている。
松本良順の所見によると、右鎖骨上から脊椎近くへの貫通銃創とのことだった。運よく脊椎を外れたので下半身麻痺にはならなかったが重傷であった。

流山についた頃は、傷口はふさがっていたかもしれぬが、右腕の運動機能に障害が残っていたことは間違い無く、それに江戸への船上では真っ白な顔色で横たわっていたというから、貧血症状も残っていたと思われる。

戦場の勇者も大怪我をすると、臆病に堕する話は太平洋戦争に従軍した老人からたびたび聞いている。近藤もその類かとも思うが、いずれにしても言い訳にはならない。

その点で 土方歳三は、彼なりの節義を貫き通して一生を終えたと言える。

新撰組幹部である近藤、土方に、思想的奥行きは見当たらない。

1 彼らの出自が百姓であること

2 そして生まれた場所が幕府直轄地で、幕府から武芸を義務化されていた半農半士である八王子千人同心の存在が彼らを武士に対する憧憬を高めたと考えられる。
新撰組幹部である井上源三郎の兄の井上松五郎は千人組同心だった。

3 青年期を江戸城下で過ごしていること

などの3要素が、二人の精神形成とその後の生き様に色濃く影響を与えているだけである。

誤解の無いように申し添えると、歴史上の人物を鑑みるに、出自はその人物の識見の高低に関して特に牽連は無いが、人物の形成過程において、良くも悪くも影響を及ぼすことは否定できない。

結果として新撰組は、崩れゆく幕府の走狗だったに過ぎないが、近藤、土方はその地位に矜持と生き甲斐を覚えていた。

勝海舟としては、慶喜が小心にひたすら恭順姿勢を示している時に、戦うことしか能が無い新撰組が江戸にいては支障があるということで、5000両と武器を与え、甲陽鎮撫隊として甲府へ追いやった。

近藤は時勢の流れを洞察する客観的視座を欠いていたといえる。甲府への途上、生まれ故郷の街道筋で若年寄格として駕篭に乗って歓迎を受けた時が、近藤勇の35年の生涯のなかで最も晴れがましい瞬間だったに違いない。

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