松平忠直とその狂気



江戸時代初期に福井藩主だった松平忠直ほど残虐非道な者は、日本史上あまり他に例を見ない。
織田信長もかなり陰惨な大量殺戮を行っているが、合戦における敵対勢力に対してであり理由がないわけではなかった。

他の藩主でも、年貢を納められない領民に対して、死に至る刑罰を与えた例はある。それとて許すべき行為ではないが、松平忠直の場合は何の理由も無く、全くの嗜虐的残忍性を満たすために無辜の領民を殺戮した。

忠直が殺した人数は1万余人に及ぶとされる。
これは 忠直の児小姓をつとめ、のちに忠直の弟忠昌に300石でつかえた早崎善右衛門という藩士が語った事実であると、「続片聾記」に書かれている。

忠直のかかる行為はそもそも作り話で、実際には無かったという説を唱える者もいる。
しかし 1623年28歳の時 公称75万石の大大名の地位が改易となり、豊後萩原に配流されたことは事実で、何らかの重大な不始末が有ったことは間違いない。

殺戮行為などは無かったとする説を唱える者の論拠の一つに、豊後では平穏な生活を送り、56歳までの残りの生涯では狂気の記録が無いゆえとしている

そして改易の理由は、キリスト教に帰依したためと主張している。
ミカエル・シュタイシェン著の「切支丹大名記」には、結城忠直(松平忠直)が1620年(元和6年)に洗礼を受けたとの記述がある。改易となる3年前のことである。

しかし1620年に忠直の姓を結城姓とするのは事実と違う。1601年父親の秀康が越前に来た時、父親と共に松平姓に改姓していた。越前家の当主が結城姓のままであるはずがない。
切支丹大名記は信憑性に疑念がある。

幕末に書かれた公式藩史である「国事叢記」に、元和4年(1618)頃より暴虐行為があったと書かれている。

そして隣藩の加賀家における藩主の言行録を集めた「夜話抄」にも忠直についての記述があり、それによると忠直は行動が荒く狂気に満ちているとし、身の回りの児小姓に対してさえ、些細なことで立腹し折檻したと書かれている。

さらに忠直の嫡男である光長の系統の美作津山10万石の津山家譜 にも、忠直が元和8年(1622)狂疾を発して老女を殺害したとの記述がある。

福井藩の下級武士である伊藤作右衛門が書き残した記録に「片聾記」がある。これは公的な史書ではないが、藩主と藩士の生活や城下の犯罪、噂話などを収録したものであり、前に引用した「続片聾記」は「片聾記」の遺漏を補遺した著作である。
この「片聾記」の記述によれば、以下に述べる残虐行為があったとしている。そしてこの話は実行者である 県(あがた)茂左衛門から、「片聾記」の著者が直接聞いたとのことである。

あるとき忠直の命令で県茂左衛門が庭先に出仕すると、30人ばかりの領民が縄で縛られて庭先に引き据えられていた。屋内には忠直とその妾で「一国」とよばれる女が座っており、酒杯を傾けながらこちらを眺めていた。

忠直の命令は、目の楽しみにそこにいる領民を片端から斬れということだった。

茂左衛門は命じられるまま、自分の刀で次々と領民を斬った。
何人か斬ったとき、忠直から声がかかった。切れ味が鈍ったようだから、この刀を使えと言い一振りの刀を渡された。
茂左衛門はその刀で残りの人数を総て斬り尽くした。

忠直から渡された刀は、「下坂八郎左衛門入道」と銘がある刀だった。初代康継の父か兄とされている刀工で、それに新刀期に入って全国のあちこちに下坂派が隆盛したが、その始祖でもある。

初代康継が、忠直の父である秀康の時代に禄を貰って越前家の抱え工となっており、そのような関係で忠直が「下坂八郎左衛門入道」の刀を持つことになったと考えられる。

「下坂八郎左衛門入道」は美濃の赤坂千手院の流れとされており、室町末期の刀工である。
末美濃には鑑賞に堪えうる名刀が少ない。
地鉄の鍛えはあまり整っておらず所々肌立つ傾向があり、日に焼けたような赤みがかった色合いをしていて、加うるに総体に白気ている。
波紋の形も垢抜けない物が多く、匂出来で所々に小沸がむらにからんでいる。

このような作風で見栄えは良くないが、合戦の実用には向いている。
手持ちが軽く、刀身は強靭で、しかも刃に粘りがあり、堅いものにぶつかってもぽろっと欠けることが無い。筆者は藁などの試し斬りをしたこともないし、する気もないが、研いでいてそのように実感している。

「下坂八郎左衛門入道」も当時から物切れするとの評価を得ていたとの記述がある。
刀の利鈍は連続して切ったときの耐久性に現れると聞いたことがある。最初の切れ味が良くても、回数を重ねると切れ味が鈍るのは業物とは言わないそうである。

忠直の残忍さに関する話は数多く残っている。江戸時代における徳川の人間には、例えば駿河大納言忠長や綱吉など異常者が何人も現れているが忠直もその中の一人である。

もっとも 「斬取強盗武士の習ひ」 などと言う古い諺があり、「武士が斬取強盗をなして世を渡るは常のならひにて恥ずかしからぬこと・・・」 などと馬鹿げた註釈がされているが、所詮、武士団などと言う存在は本質的に暴力団以外の何物でもないので、彼らの人間性を忖度することは愚かなことである。

武士道などというものは、古来やくざの掟の如きものに外ならない。

父親の秀康が秀忠より先に生まれたにもかかわらず、将軍になれなかった鬱懐が、忠直にまで及んでいるとする説がある。一方大阪夏の陣における忠直の戦功に対し、家康からの褒美は茶入れ一個だったことで、著しく気分を害した等の説もある。
しかし そもそも忠直は生来の狂疾を内包していたと考えられる。

人間の不気味さは、このような異常性格を持つ人間が、通常の社会の中では埋没し顕現しないばかりか、むしろ気弱でごく普通の印象を与えることが珍しくないことだ。

斯様に陰惨なまでの嗜虐性を潜在させている人物が、ひとたび絶対的権力をにぎると、すさまじいまでの残酷な行為に走ることがある。洋の東西を問わず人間の歴史にはそのような人物が時折り現れている。

考えるに このような性向の人間は精神的に異常であるばかりでなく、精神的な弱さを内包していると考えられる。弱さとは腕力の強弱とは関係が無い。理性を基盤にした心の強さの有無である。

忠直の凶状の発端は、「一国」と呼ばれていた妾が「人が斬られて死ぬところを見たい」と望んだというのが通説である。この女もまともな人間ではないが、それに唯々諾々と従った忠直は許されるべきではない。忠直と一国は嗜虐性の強い精神病質者であると考えられる。

初めは罪人を庭先に引き据えて斬らせたが、程なく罪人を斬りつくすと、無辜の領民を無作為に連れてきて殺戮に供した。
当然藩内には憤懣による非難の声が湧き起こったが、領内に密偵を放ち不平を言う者を片端から連行して殺戮に供したので、誰も不平を言う者がいなくなった。

前にも述べたように、忠直が殺した人数は1万余人に及ぶとされている。話半分にしても5千人が殺された事になる。

狂気の沙汰が幕府に聞こえ、将軍秀忠の意を受けて、忠直の母親である清涼院が江戸から急遽越前に使者として赴いた。母親の説得に対し、28歳の忠直は涙を流しながら非を認めた上で、おとなしく配流の地へ向かう篭に乗ったとされる。こんなところにも忠直の柔弱な心根が表れている。権力を奪われてしまえば、もともとは惰弱で愚昧なだけの男だったのである。

豊後萩原に配流後は5000石の捨扶持を与えられ、城主竹中采女正重次にあずけられた。忠直は同地で56歳まで生きて病死した。配流の地では異常な振る舞いの記録が無いので、穏やかな日常を送ったと考えられる。
この種の人間は、絶対的権力を奪われ逆に監視下に置かれると、打って変わってごく気弱で社会の中で目立たない存在に変ることのひとつの証左である。

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