焼き出しについて

地鉄の微妙な色合いの違いを手がかりに鑑定をするのに比べ、焼き出しは刃文として形を伴って刃区に現れるので、誰にでも分かりやすいと言える。
直刃焼き出しと 湾れごころに焼きが深くなる俗に言う大阪焼き出しの二様がある。

専門書の中には、焼き出しは新刀に限られると記述しているものがあるが、これは誤りである。
焼き出しは古刀からある。

室町期における冬廣、島田一門、末関物、村正などに時々見られる。

つまりこれらの刀工は常に焼き出しを焼くわけではないが、焼き出しの有る作品があると言うことである。

このうち島田、末関、村正の三者は、前章で触れたように、腰刃を焼く刀工達である。はばき元の刃文に何らかの意匠を加えようとする意図が読み取れて興味深い。

村正の焼き出しは直刃焼き出しで長さは1寸ぐらいである。島田はこれよりやや長くなる。

鎌倉時代の手掻包永は、腰元の5寸位をそれより上に比べて細直刃に焼く手癖がある。これを焼き出しと言うつもりは無いが、覚えておくのも一興と思う。


新刀期で焼き出しのあるものは以下に分類される。但し以下に該当する刀鍛治が常に焼き出しを焼くわけではない。

1 末関の末裔

2 島田の末裔

3 大阪在住のもの、或いは大阪へ移住したもの

4 大阪で鍛刀技術を学び地方へ帰ったもの、及びその弟子

5 上記の1~4に関係がなく、末関か大阪ものを写したと考えられるもの乃至影響を受けたと考えられるもの

以上を眺めると、古刀期に焼き出しのあった系統やその縁戚が中心となり、その他それらに私淑したものなどで形成されている事が分かる。


新刀で上記の1~5までをそれぞれ列挙すると以下の通りである。

     1 尾張関の信高

     2 国清 (初代国清は島田助宗3代の子)

     3 初代国助、肥後守国康、中河内、 国輝、 津田助広、 助直
       
       親国貞、 真改、  
       包貞、  
       親忠綱、
      大和守吉道

     4 紀充(父の包国が大阪初代丹波守吉道門人)、

     5 国濤、
       和泉守兼重(稀にある)、 興里
       長道
       脇肥前の正広、行広
       東山美平 
       上野大掾祐定
       紀州石堂の一部


新刀期において、末関や島田の系統以外で、最初に焼き出しを取り入れたのは、堀川国濤である。国濤自身は末関の兼定に私淑したらしく、兼定写しと思われる作品をよく見かける。その結果として、末関に見られる焼き出しを自ずから取り入れたのであろう。

国濤は堀川一門の中では古参に属し、初代国助と親国貞を実質的に指導した。親国貞には兼定写しの国濤の作品に大変よく似ているものが現存する。それゆえ国助と国貞は指導者である国濤の作風を受け継ぎ、それが大阪で広まった。

和泉守兼重には少ないが焼き出しのあるものがある。

興里の瓢箪刃はよくみると、大きな互の目と小さな互の目が一揃いになって続いており、それはあたかも助広などの濤乱刃を矮小化した形と言える。助広ほど焼きが高くないだけである。つまり興里は大阪新刀を真似したと言える。

三善長道は興里の作風に私淑したと前に述べた。

大阪新刀の濤乱刃のような大乱れは、市民文化の爛熟に伴う華やかさに合っていたらしく、全国的に流行する傾向があった。肥前刀にもそれが見られる。


新々刀期における焼き出しは、新刀期で示した分類を次のようにあてはめることができる。

1 大阪在住
2 大阪で学んで地方へ帰った
3 大阪物を写した
4 上記と全く関係が無いもの

それぞれを列挙すると以下のようになる。
       1 助隆

       2 徳隣

       3 水心子正秀

       4 備前 祐永、 祐包
         因幡 浜部寿実

新々刀期における焼き出しは、新刀期に比して長くなるものが多い。


新刀期で焼き出しがないものは、ある程度限られる。

焼きだしがある新刀は、大阪と鑑てほぼ6~7割当たりであるが、大阪でもなかには無い刀もある。

初代助広、 長幸、 照包、 一竿子忠綱などには無い。

江戸では、興里以外にはほぼないと考えてよい。稀にある例は除外する事にする。前に示した内容と矛盾する事になるが、知識を広げすぎると結果として対象が絞りにくくなることがある。それゆえある程度截然と切り離す事も必要である。

兼若にも焼きだしは無い。

肥前刀の嫡流には焼きだしが無い。あれば脇肥前である。嫡流に焼き出しがあることが稀にあるが、ほぼ無いと言って良い。
 
                       目次へもどる