インド社会とア ンベードカル




インドは現在、人口で中国を抜き世界一位の14億人である。軍事費でもアメリカ,中国に次ぎ世界3位となっている。そして年齢別人口比では10代20代が圧倒的に多く、少子高齢化の先進国とは全く様相を異にしている。今後数十年間にわたって生産と消費人口がこれだけ増え続ける国は他にない。

GDP(国民総生産)でも2027年には、日本を抜き世界第3位と予想されている。それゆえインドは今後国際社会において重要な地位に就くことになり、我々日本もインドから目を離すわけにはゆかない。

ところで良く知られた事実ではあるが、インド社会では著しい貧富の格差とカーストと呼ばれる身分差別がある。

貧富の格差でいえば、ある人がインドの地主と車に乗って数時間も走った後、「ここはどこか」と聞くと「まだ私の土地だ」と言われて驚いたとの話を読んだことがある。

カーストの身分差別については、1950年インド憲法第17条によって差別用語は禁止されたが、その草案を作り施行したのは、アンベードカルという人物である。

新憲法の特質は主権在民と国民の代表たる国会がその主権を遂行する点にあった。

カーストの差別撤廃において、ガンジーがすべて主役を務めたとし、アンベードカルについて当時の新聞は全く触れていないがそれは実情と乖離している。そのことについて以下に述べることにする。

アンベードカルはカースト社会におけるダリット(不可触民)出身だった。
その彼が法務大臣迄上り詰め憲法を起草したことは、差別が厳しい当時のインド社会の中にあって驚異的なことである。

カースト社会における差別がいかに厳しいかは以下に示すが、そうしたなかでアンベードカルがなぜ法務大臣にまで上り詰めることが出来たのかについて調べてみた。

この稿では以下の順序で述べることにする。

1 カースト制について
2 カースト制の実態
3 アンベードカルの若年時代
4 青年時代
5 アンベードカルの主張
6 アンベードカルの法務大臣就任
7 法務大臣辞任
8 ガンジーの主張
9 ガンジーに対するアンベードカルの批判
10 アンベードカルの転宗
11 アンベードカルの死
12 結論


1 カースト制度について

カーストはヒンドゥー教における身分制度である。紀元前1500年頃にアーリア人がインド大陸の北西部からインダス川流域に侵入してきた際にヒンドゥー教を持ちこみ定着させた。

アーリア人はもともとコーカサス地方に居住していた狩猟、牧畜の民である。後にゲルマン人、モンゴル人などの狩猟、放牧民族が本来から備わっている機動性と軍事力で近隣に攻め入ったことと共通していて興味深い。

ヒンドゥー教に教祖はいない。インド国内の旧来からのバラモン教や土俗宗教を吸収して発展し今日に至っている。本来アーリア人にはカースト制度は無く、身分差の少ない社会であったとされている。

バラモン教は、のちのヒンドゥー教の源流となった宗教の1つで、厳格な階級制度(カースト制度)を持っていた。つまりカースト制度はバラモン教がその元凶である。

現在のヒンドゥー教信者はインド国民の約8割である。ヒンドゥー教の教えはカースト制度を正当化し、社会的な不平等を固定化してきた。

アンベードカルはヒンドゥー教のマヌ法典が差別の根源と考えていた。
尚ヒンドゥー教はネパールにおいても国民の間で多数派を占めている。 

ヒンドゥー教の教義の主要部分は輪廻転生としている。

このことはインド国民が長い時代にわたってカースト制を甘受した精神的支柱になっている。現在最下層のカーストでも、自らの運命を受け入れつつ日々を精一杯生きれば、次の世には格が上のヴァルナ(カースト制における階級構造)に輪廻転生するという教義を信じているのである。この教えがインド国内においてカースト制が存続してきた所以である。
                  
外部から侵入したアーリア人が広大なインド大陸を支配するには、武力もさることながら統治体制が重要だった。

武力と権力を持った専制君主と言えども数百人規模ならいざ知らず、数百万人以上の人民を統治するとなると部下が必要である。一人の部下が管理できる人数は限りがあるから、更に部下の下に部下と言う階層を作り、それぞれが専制君主の権力を代替して行使することになる。階層間の上下には権力の差があり当然のように差別が生まれる。

つまり人間社会を効率的に統治するには、内部に歴然とした階級を作りその階層同志で牽制させる方法が効率的である。

それはかっての仏、英がアフリカの植民地を分割統治で支配した手法である。分割統治とは住民の一部を権力側に引きつけて一般住民と対立させ人民を統治したやり方である。

軍隊組織では当然なことだが、民間の会社でも職階が作られ運営されている。

少数のアーリア人が広大なインド大陸を統治した手法は、時代が遥かに下がるがモンゴル人のフビライ・ハーンが中国の南宋に攻め入り、
「元」を樹立して統治した時の支配体制に似ている。

元の支配領域である朝鮮半島から東アジア大陸の広大な地域において、支配者であるモンゴル人は総人口の1%しかいなかった。

その状況の中で使われた統治手段は、モンゴル人を頂点とする人種差別と職業における階級差別である。

喧嘩でモンゴル人が中国人を殴っても、中国人は殴り返してはいけないと法律で定められていた。

職業にも10階級が設けられ、儒者は一番下の乞食のすぐ上であった。これは中国文化を完全否定するために、中国文化の核心をなしていた儒教を排除する意図が有ったためである。

そしてモンゴルの統治体制の厳しさは、もし少数の現地支配者に叛くと、モンゴル軍が大挙して押し寄せて来て年齢、性別に関係なく残忍な方法で皆殺しにした。この恐怖が現地人を従順にした理由でもある。


徳川家康の場合は自らの地位と統治体制を人民に容認させるため、士農工商の身分制度の他に儒教の分派である朱子学を積極的に取り込み、支配者に忠を尽くすことが何より大切と人民を洗脳した。


2 カースト制の実態

カーストの身分制は「ヴァルナ」と呼ばれ、最上位のバラモンから以下のように規定されている。

1 バラモン  (祭司)
2 クシャトリア (王族、貴族、武士)
3 ヴァイシャ (製造業などの市民や商          人階級)
4 シュードラ (労働者、農民、などの隷         属民)
                                      
更にこの下にはヴァルナの枠外であるアチュート、ハリジャン或いはダリットなどと呼ばれる不可触賤民階級があり、1950年インド新憲法で
カーストによる差別と差別用語が禁止
されるまで存続した。

1953年12月末に政府は「不可触民制犯罪法案」を上程し、1955年に制定された。
この法律によって不可触民制の根絶に反した者は罰金、懲役を科されことになった。

その結果ダリット階級の活躍の場が広がり、ダリットでありながら州首相、最高裁長官、党首になった者もいる。

しかしながら地方では今でも相変わらずカースト制が根強く残っている。
2011年の調査では、ダリットに属する人々は全国民の16.6%であり、約2億人である。
                              ダリット(不可触民)に対する差別はすさまじいばかりだった。以前では警察官、軍人になれなかった。

教育や雇用の機会において不平等であるばかりでなく、接触することや、食べ物をやり取りすること、共に食事をすることはなく、履き物の種類、住む場所も制限されており職業も限定されている。目を向けるだけで目が汚れるとして見ないということもある。

学校では教師から避けられ、警察からも嫌がらせを受け、村の共同井戸で水も飲めなかった。

公立学校教師の多くは不可触民の子供が学校に来るのを快く思っていなかった。なかにはアンベードカルに向かって、「お前なんか勉強したって無駄だ」と面と向かって罵る教師もいた。

そんなわけで家を借りるのも難しく、ヒンドゥー教徒でありながらヒンドゥー寺院に入ることも許されない。

カーストは身分制度の他に、ジャーティーと呼ばれる世襲の職業の規定があり、その職業分類は2000~3000に及ぶとされる。ジャーティーは職業の世襲のみならず、異なったジャーティー間では通婚しない。

つまりカーストとは、ヴァルナとジャーティーの結合体である。

この状況ではいくら優秀であっても 世に出る事は極めて困難である。始末の悪いことに身分と職業は世襲制で代々固定している。

他の宗教からヒンズー教に転宗した者は最下位のカーストに入る事になっている。

IT産業は近年発生した産業であるゆえに旧来からのジャーテイに含まれずカーストを問わないとされているが、IT創業者の多くがカースト上位出身であり、一概に能力主義とは言えない。

イギリスは1858年にインドを英領として植民地とした。インドに対する植民地支配において、カーストの温存が植民地経営に都合がよいのでそれを利用し、カーストが進行したという経緯がある。それにインド社会では英米人を上級カーストと同等に扱う慣習があった。

そもそも人間には潜在的に差別する心が内在しているようである。

差別は自己評価が低下している時に、人は自分より下のものを見つけて差別し、優越感によって心の慰藉を得るという心の習性である。

キリスト教では神の前では総ての人間は平等であると説いており(ロマ人への書 第2章11)、仏教でも平等が説かれ、ルソーは「人間不平等起源論」において、「不平等は神が生み出したものではなく人為による」 としている。

「言い残された言葉」 曾野綾子著 269頁に以下の記述がある。
世界中は、上の階層から下の階層まで、実は揃って格差も差別も好きなのである。インドのヒンドゥ社会では、最下層と言われる不可触民の人たちは、自分たちの踊りの後に、ジプシーの婦人たちが登場すると、あらわに侮蔑のどよめきを示した。
もっとはっきり言えば、階層格差から来る不満は、時には自分より下の階層として差別を受けるグループを発見することによってかなり慰められ、不幸感も解消するのである。

曾野綾子氏はキリスト教関係や日本財団(競艇関係組織)役員として、一般の人が訪れないような世界中の僻地を訪れ滞在した経験があり、人間観察における視野が広い。

このような社会的状況の中で不可触民であったアンベードカルは 大学に進み博士になったのち法務大臣にまで上り詰めた。そして不可触民制度を禁止する憲法草案を起草した。

これは驚異的というより当時にあっては極めて困難なことであり、如何にしてそこにたどり着いたか興味深い事実である。
そこでアンベードカルの人生を調べてみた。

3 アンベードカルの若年時代

アンベードカルが優秀な子供だったことは間違いないが、当時のカースト制度の中で優秀ということで世に出ることは不可能である。

生まれる前から教育を含めて社会全体から疎外された身分につく事が確定しており、職業も収入の乏しい世襲の卑職につくことが定められているからである。

アンベードカルの人生に決定的な転機が訪れたのは、紹介してくれる人がいてパローダ藩王国の藩主シュリ・サヤジラーオ・ガエクワード(1863~1939)と知り合ったことだった。

パローダ藩王は開明的な近代的思想の持ち主で、1883年ダリットのための学校を設立した篤志家であった。

もっともそれより早く1848年にマハトマ・フレー(1827~90)という人物が、ダリットのための学校をインドで初めて創立している。

アンベードカルが世に出る基盤は父が教育熱心だったことにある。しかし貧しい父には彼を上級学校に進ませるだけの経済力が無かった。

ところがそれを知った作家のケールスカルという人物が、 パローダ藩王に出向きアンベードカルについて話してくれた。藩王は早速アンベードカルと面接しその優秀性を認め、月額25ルピーの奨学資金の提供を約束し、ボンベイのカレッジで学ぶことが出来た。

一方アンベードカルが17歳の時9歳の少女と結婚している。この年齢の結婚はインドでは普通のことだった。

のちにアンベードカルは米英に留学しているが、食事も十分とれないほどその時困窮していたのは、留学費の中から家族に送金しなければならなかったからである。


4 青年時代 (22歳~)

大学卒業後アンベードカルは保護者であるパローダ藩王国の将校に任命された。アンベードカルが22歳の時である。

この年の1913年2月2日父親が亡くなった。その後 パローダ藩王が幾人かを選んでアメリカのコロンビア大学へ入学させる計画を発表した。それを聞いたアンベードカルが応募した。

藩王は彼を留学生として選抜し、1913年7月ニューヨークに着いた。

彼はコロンビア大学において「英領インドにおける地方財政の発達」で博士号を得た。

しかしパローダ政府から奨学金の期間が過ぎたからインドに戻れとの命令を受けた。それゆえ母国に戻らざるを得なかった。

パローダ藩王は帰国したアンベードカルを軍書記官の地位に付けた。しかし部下や召使はダリット出身の彼の言うことなど全く聞かなかった。藩王に助けを求めたが、なすすべはなかった。
それゆえ1か月で職を辞めざるを得なかった。

その後 友人のナーヴァル・バーテーナ氏とコールハープール藩王シュリー・シャーフーの援助で1916年10月 ロンドン大学で学ぶと同時に法曹学院でも学んだ。

ロンドン大学においては経済学を学び「ルピーの問題」という論文で博士号を得て1917年26歳で帰国した。その時上級法廷弁護士の資格をも身に付けていた。

1923年32歳の時に弁護士として開業した。事務所開設資金は友人のナーヴァル・バーテーナ氏が援助してくれた。弁護士として活躍できる機会を与えてくれたのは、コールハープール藩王シュリー・シャーフーである。

5 アンベードカルの主張

人間は生まれながらにして平等であり基本的人権を有する。 ヒンズー社会はカースト制度を廃止し、平等を達成すべきである。

政治権力が不可触民階級の苦しみをすべて解決してくれることは無い。真の開放は不可触民自らの向上である。

アンベードカルが信じていたのは国家社会主義である。それが急速な工業化にとって不可欠とした。 

6 アンベードカルの法務大臣就任

1947年4月29日にインド議会は  「いかなる形における不可触民制も廃止し、不可触民への差別は罪とみなす」  との宣言を行った。

世界の新聞は挙ってこれをガンジーの偉業として賞賛したが、アンベードカルの名をあげた新聞は一つとして無かった。

1947年8月15日インドはイギリスの植民地から独立した。 その際 ヒンズー教徒とイスラム教徒との間で宗教対立が政治的な確執にまで発展し、ヒンズー教徒が多いインドとイスラム教徒が多いパキスタンは別の国として分離・独立することとなった。

初代首相になったネールは、アンベードカルに対し法務大臣として入閣を求め、アンベードカルは受け入れた。そして1947年8月29日に議会は憲法草案起草委員会の議長としてアンベードカルを指名した。

アンベードカルが起草し1950年1月26日に施行されたインド憲法17条によって、
カーストによる差別と差別用語は禁止された。
更に公共機関、施設で15~18%の割合でカースト下位の人々を優先雇用し、入学や奨学金制度も同様とした。

しかし
カーストそのものを禁止したわけではないので、現在でも地方でカーストの影響力はますます広がっているのが実情である。


7 アンベードカルの法務大臣辞任
憲法草案を1948年2月に仕上げ、1950年1月26日に施行された。その17条においては 不可触民制による差別を禁止し、少数者の基本権を保護するものだった。

さらにアンベードカルは民法制定に努力したが、結婚と離婚の自由法案が却下され、法務大臣を辞任した。

1952年総選挙でアンベードカルの野党はネルーの国民会議派に大差で敗れた。
 
8 ガンジー の主張

ガンジーは1869年カーストのヴァイシャに属する裕福なヒンズー教徒の家に生まれた。アンベードカルより22歳年上であるが、社会的な活躍年代は重なっている部分がある。

イギリスに留学し弁護士になった。非暴力と非服従の信念でインドの独立運動に挺身した。

アンベードカルがロンドン大学において学び26歳で帰国したころは、ガンジーが独立運動の主役として活躍していた頃であった。

1947年にインドは独立している。同時期にイスラム教徒が多い地域はパキスタンとして分離独立した。ガンジーの非暴力思想の基盤は、極端に禁欲的なジャイナ教からきている。

1931年ガンジーが62歳の時まで、ガンジーはアンベードカルがダリット(不可触民)出身であることを知らなかった。不可触民に深い関心を持つブラーミン(僧侶階級=カーストの最上位)だと思っていた。

手ごわい政敵のアンベードカルがダリットであることを知った時、ガンジーは甚だしく不快な表情を示した。

このことはガンジーに階級差別する心があったことの証拠と言える。

ガンジーはアンベードカルに手紙を出し、会いたい旨を伝えた。1931年8月14日にアンベードカルは数人の部下と共にガンジーを訪問した。

訪問した時
ガンジーは、彼に対する主要な支持派である会議派の連中と歓談していた。アンベードカルは目の前の床にじかに座り待ったが、ガンジーは無視して会議派の連中と歓談を続けた。

しばらくしてアンベードカルに気づいたように
向き直り「何か言うことは無いかね?」と尋ねた。
それに対しアンベードカルは「あなたのほうで御自分の意見を聞かそうと私を呼んだのではないですか?」と反論した。

この会見の一連の流れは実に無礼である。22歳の年齢差があるにしても階級差別の意識がガンジーに有ったとしか思えない。 

アンベードカルはカースト制を差別的身分制度以外の何物でもないと考えたが、ガンジーは不可触民制廃止として活動していた一方でカースト制を理想的分業体制と考えていた。

ガンジーはと4ヴァルナ(階級制)の信奉者であり、カースト制をそのままにして不可触民をヴァルナの第5階級にしようと考えていた。つまり不可触民をヒンズーから政治的に分離することに明確に反対していた。


9 ガンジーに対するアンベードカルの批判

1931年9月7日第2回英印円卓会議において、ガンジーは分離選挙に反対し、アンベードカルとイスラム代表は分離選挙に賛成した。結果としてイギリスは翌年分離選挙を認めた。

分離選挙とは、不可触民だけが選挙権、被選挙権とも持てるような特別枠を設ける事である。そうすることで不可触民が選ばれて議員になる道を作る事になる。

ガンジーはアンベードカルの要求する保留議席付きの合同選挙には絶対反対して譲らなかった。

保留議席制度とは、少数派や被差別集団に属する人々が政治競争の場において議席を獲得できず、社会から疎外されている状況を改善するための議席割り当て制度で、積極的差別是正措置である。

ガンジーが言うにはヒンズーイズムに上下の差別はなく、自分はヒンズーである。それゆえにガンジー自身は四姓制(ヴァルナ)の存続を支持するとしている。

しかしヒンズーイズムとカースト制度は一体であり、上下の差別はないとするのはガンジーの詭弁である。
                               ガンジーの支持者と後援者は従来からのヒンズーの資本家であり、彼らを刺激しないことを常にガンジーは留意していた。

ガンジーの目指すところは、カースト制をそのまま温存し、不可触民を第5位カーストの地位に引き上げようとするものだった。ガンジーはアンベードカルとの対談でカースト制度は悪い制度ではないと述べている。 

ガンジーは束の間の幻影のように人を惑わすが実際には何も変えはしない。あくまでダリットを第五位カースト民の地位にしてヒンズー社会の支配下に置こうとしているとアンベードカルは述べた。         

アンベードカルはこの2500年ものあいだ牢固として存在するヒンズーイズムを廃絶し根本的改革を目指していた。                                                                      

ガンジーは会議派と呼ばれる多数派政党に属しており、会議派は資本家の手に握られていた。1938年に会議派は州首相のカレーを解任した。

その理由はカレーが新政府閣僚にダリット出身議員を参加させようとしたことに、ガンジーが反対したためである。つまりガンジーは心の中で差別撤廃など考えていなかった                                
アンベードカルはガンジーの不服従運動としての集団行進に反対している。

いわく「不服従行進の本質は圧力である。それは究極的に反乱の形になる暴走手段であり、革命は流血、非流血のどちらであろうとその過程における混乱と悲劇の危険が極めて大きい変革手段である」 とした。                                              ガンジーは不可触民制撲滅運動を起こしていないし、カーストヒンズーと不可触民間の友愛のために断食をしていないとアンベードカルは述べている。
     
しかしながらガンジーがインド社会に多大な影響力を持っていたことは間違いない。ガンジーが自らの主張を通すために断食を行い死に瀕した時、国民はうろたえ迎合しようとした。

単なる一介の老人が断食の結果死のうと、インドの世人は一瞥も与えない。こんにちでもガンジス川に人の死体が浮いていることはありふれた日常風景であり、インドでは他人の死に対して騒ぎ立てたりしない。

ガンジーはインド国独立のために挺身し、アンベードカルは一部の国民の差別撤廃のために邁進した。いささかスケールの大きさに違いがあるようだ。

しかしながら、ガンジーがダリットに対する理不尽な社会的差別を廃絶するために行動したことは無い。そのような姿勢を見せて装っただけである。

ガンジーはインド政界のボスであり、ディクテーター(独裁者)であり、ガンジーのダイナミックな行動に幻惑され痺れるインド大衆の無冠の王であった(アンベードカルの生涯 ダナンジャイ・キール著 137頁)。
                              アンベードカルはヴァルナ(カーストの四姓制度)を廃止すべきとしたが、ガンジーは存続を主張し引き下がらなかった。ガンジーにとって不可触民制の廃止は綱領に過ぎず具体的計画はなかった。                               インド各地で開かれた多くの集会、会議、指導者、協会などから
「ガンジーとその支持団体である会議派を信用するな」
というメッセージが当時のアンベードカルの元に数多く届いている。                              

 ガンジーが回教徒代表と交渉の際、彼らの要求する14項目を受け入れる条件として、不可触民階級並びに少数コミュニティーグループの要求に反対するよう回教徒側に求めた
(アンベードカルのザ・タイムズ・オブ・インディア新聞への投稿内容)。

初めから不可触民のために尽くし、その大義を背負ってきたと言うガンジーの主張は虚偽である。   

アンベードカルがガンジーを嫌ったのはガンジー主義は機械を憎み人間に大きな可能性を与えず経済的平等を拒否したからである。
   
ガンジーはお喋りには事欠かないが、内容のある建設的見解や示唆が出来ないすこぶるお粗末な人物であるとした。
                                    会議派は、インドの運命を託するのに一番まずい人物であるガンジーを選んでしまった。   

ガンジーから期待できるものは、祝福のお題目と空虚なお説教に過ぎない。 

ガンジーは法より階級制を重んじている。                               1945年6月アンベードカルは「会議派とガンジーは不可触民に何をしたか」と題する本を出版し、その中で以下のように述べている。

「ガンジーの言うハリジャン(ダリット)向上委員会なるものは、不可触民制の現実的廃止よりも、国民生活の中で不可触民階級が独立した一つの社会的存在と浮かび上がるのを阻止しようという意図のもとに進められたものである。」                        

「ガンジーにとって不可植民制の廃止は、建前にすぎず実際的行動計画ではない。ガンジーは不可触民の解放者でも無ければ救済者でもない」。 

教養と識見の深さの点で、アンベードカルのほうがガンジーより勝っていた印象がある。

しかしながら現在インドの小学校の教室には ガンジーの写真が掲げられているし、ルピー紙幣にはガンジーの顔が印刷されている。インド独立の功労者としてガンジーは国民から尊崇の念を持たれていることは事実である。

10 アンベードカルの改宗

アンベードカルはヒンズー教が差別の根源と考えていた。アンベードカルの人生は理不尽なカースト制との戦いだったが、強固な宗教上の因習の前に疲れ果て仏教への改宗を考えたようである。

ヒンズー教の説く死後の、或いは救済後の世界など誰も見た者はいない。上位三カーストにひたすら奉仕したシュードラが救済されるなどの教義は邪悪な虚構に過ぎないとした。

最初アンベードカルはシク教への改宗を考えていたようである。
その理由はシク教がヒンズーの流れを汲み、シク教徒とヒンズー教徒は通婚している。それゆえシク教徒になることは ヒンズー社会に留まりながらカーストからの離脱をもくろむものだった。

しかし1938年1月に集会で演説した時からシク教から距離を取り仏教へ向かった。  
                              仏教は紀元前6世紀ごろ釈迦が開祖の宗教である。釈迦は王族の生まれだったが平等を説いた。そもそもバラモン教の階級制度や祭祀を否定した人々から、仏教やジャイナ教が生まれたとされている。

釈迦は不可触民制を批判し、不可触民を弟子として受け入れた。

しかし仏教がヒンズー教にとってかわらなかった理由は、仏教の教義が難解であったことと、インド国内の領主にとって、平等を説かれるのは不都合だった点にあった。

それに仏教は神を持たぬことや、現世への関心の無さ、家庭生活への無関心などが発達を阻害した。
それゆえ13世紀には仏教はインドで殆ど衰亡するに至った。

日本においても平安時代後期に法然が仏教の難解な教義ではなく、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば極楽往生
できると説き、それが大衆受けして浄土宗、そして浄土真宗として広まった経緯がある。

アンベードカルは米英に留学し、独立後のインドで法相にまで上りつめた。しかし新憲法を1950年1月26日に施行させたが、ヒンズー教の牢固とした因習を完全に払拭できなかった。その結果万人の平等を説く仏教に改宗することによって差別から人々を解放しようと考えたようである。

1950年7月、講演の中でダリットがその苦難の道を終わらせるには仏教に帰依する他はないとし、余生をインドにおける仏教復興と普及に専念すると断言した。アンベードカルが死ぬ6年前である。        

近世においてはダリトの人々が平等を求めて仏教に改宗する例が多い。 逆に他宗教からヒンズー教に改宗した場合は、最下位のカーストに組み入れられる。

そして1956年には約30万人の不可触民を率いて、集団で仏教に改宗させている。

こんにちの現状ではインド憲法が存在するにもかかわらず、地方においてカーストの影響はますます広がり、インド国民の間に浸潤しているとされる。

11 アンべードカルの死

ガンジーはヒンズー教とイスラム教徒の対立解消を目指していたが、1948年にヒンズー教徒に暗殺された。ガンジーが殺された8年後に、アンベードカルは65歳で病没している。

アンべードカルの死は突然やってきた。1956年12月5日、執事に足を揉ませた後、夜11時半頃就寝したが、翌朝夫人が見に行くと冷たくなっていた。

死因は自然死だった。糖尿病がかなり進行しており、そのうえリウマチも患っていてその痛みを抑えるために麻薬を使っていたことが命を縮めたと言われている。その当時アンベードカルの最初の妻は亡くなっており、再婚した妻は医師だった。


12 結論

アンベードカルが立身出世出来た理由は、彼自身の優秀でひたすら学問に打ち込む真面目な性格が基盤となっている。しかしそれだけでは当時のインド社会にあって世に出ることは不可能である。

つまり優れた友人、知人に邂逅できた事、そして彼らを通して開明的な藩王から経済的な援助を得られたことにある。 何か大きな仕事をするには人とのつながりが大事であることが如実に示されている。

生まれながらにして牢固とした世襲の身分制度を設けてはならない。機会の平等を確保し、生まれた時には誰でもスタートラインが同じであるべきである。

統治体制はいかなるものであっても多かれ少なかれ欠陥が内在するゆえ、究極的に最善の体制と言えるものは無い。それゆえいずれの形でも良い。

譲ることのできない要諦は、どんな体制であっても基本的人権が確保されていることである。

それにしても宗教の人間に与える影響力の激しさには改めて驚かざるを得ない。諸外国では発展途上国は言うに及ばず、先進国でも宗教が国家や文化と深く結びついて土着化し,国民の心と生活に深く沁みついている。

人間について語る時、宗教は重要な要素となっている。
                               完
                                           目次へ戻る