ポピュリズムとヒトラーの政治手法

目次



1 ポピュリズムについて

2 ポピュリズムの定義

3 ポピュリズムの特徴

4 ポピュリズムの歴史

5 ポピュリズムが最初にアメリカに現 れ た経緯

6 アメリカにおける人民党の盛衰

7 日本におけるポピュリズム

8 トランプにおけるポピュリズム

9 ポピュリズムの長所

10 ポピュリズムの欠点

11 ヒトラーにおけるポピュリズム

12 ヒトラーの出自と育った家庭環境

13 ヒトラーの性格

14 ヒトラーの青少年時代

15 ヒトラーが世に出る端緒

16 ヒトラーが権力を握る直前のドイツ の政情

17 ヒトラーが権力を握った経緯

18 ヒトラーがポピュリストとして掲げた政策


19 ユダヤ人を攻撃目標とした理由

20 当時のドイツ国民の多数が持って いた感情

21 ヒトラーの終焉

22 ポピュリズムに対処する方法

23 結論





ポピュリズム について

ポピュリズム(populism)は一般に「大衆迎合主義」,「人民主義」、「庶民主義」、などと訳されることが多いが、明確な定義が存在しない。そしてポピュリズムに沿って行動する者をポピュリスト(populist )と呼ぶ。

国民の間に遍く蔓延する不満を摘出し、既成権力への批判として扇動して政治勢力を作り上げ、政治改革すべきとする主張の実現を目指す政治運動である。

ポピュリズムは古代アテネの直接民主主義では存在しなかった。多数の有権者を擁する間接民主主義(代表制民主主義)にのみ発生する。

最近の事例では、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ勝利であり、日本ではかっての小泉純一郎の政策が該当する。

ポピュリズムは必ずしも悪ではない。

この稿ではポピュリズムの概括に触れ、それを利用した悪い例としてヒトラーについて述べることにする。


2 ポピュリズムの定義

1 固定的支持基盤を超え既成政治やエリートを批判する政治姿勢で、幅広く国民に直接訴える。

2 腐敗したエリートと善良な人々との敵対関係の形をとる。

要するに政治、経済エリートに対し、経済的や社会的地位などによって痛みを負わされて疎外感を味わう人々の反感の現れである。

ポピュリストは反多元主義を信念とし、組織されていない人民に依拠する。一見したところ民主主義に則って正当化しているように見える。


3 ポピュリズムの特徴

ポピュリズムは代表制民主主義からのみに発生する。それゆえポピュリズムは民主主義に内在する矛盾である。

ポピュリストは投票の過半数を握った時点で民主主義の正当性をまとった善の体現者として全体を僭称する。

そしてポピュリズムは選挙による多数決を正当性の根拠にしているので一概に排除できない。

雇用、移民、テロなどその時点で社会が持つ特定の争点に限定し、結びつきや方向性に一貫性がない。

民主主義は有権者の最大多数が、その代表に権限を与えることを可能にする。しかし選ばれた代表の行動は、必ずしも最大多数が望んだものと一致しないことがある。つまり最大多数の判断は誤りうるし、議論の対象になりうるとされる。

既存の民主主義政党は、特定の団体、宗教に支持され彼らの権益を主張するが、ポピュリズムは年齢、性別、宗教、組織などの属性を超えて集まる。つまり固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイルである。

それゆえ特定の社会経済集団が支持者とは限らない。

ポピュリストは右派、左派、保守派、進歩派、国粋主義者や社会主義者もおり、一つの定義のもとに包摂できない。それゆえ政策に一貫性が無く政治思想もない。そして中道であることはほとんどない。

ポピュリズムは人民が、利己的で腐敗したエリートや既成政治を批判する政治運動である。

ポピュリズムは政治経済エリートに対し、緊縮財政や産業構造の空洞化などの痛みを負わされて疎外感を味わう人々の反感のあらわれである。

ポピュリズムは職業政治家や官僚に対し、民衆から隔てられた政治を正し、人民の声を直接政治に反映させる。
つまり人民の直接参加を通じ、より良き政治を目指す試みと考えられる。 

ポピュリズムは人民を「善」とし特権層を「悪」として人民に訴え、主張実現を目指す。

つまりポピュリストは民主主義の正当性をまとった善の体現者として全体を僭称する
が全体的な将来構想を持たない。

雇用、移民、テロなどその時点で社会が持つ特定の議題に限定して追求するが、結びつきや方向性に一貫性はない

ポピュリストは自分たちだけが、真正な人民が言うべきことを代弁する代表であると主張し、それでいて単なる執行者であるとして責任を負わない。

民主主義では権力を分立させ、その間での抑制と均衡が要諦であるが、ポピュリストはそれを人民の意思の実現を阻む障害であるとする。

国民発議や住民投票などの直接民主制の形を求めることもある。 
「大阪都構想」の賛否を問う住民投票、そしてイギリスのEU離脱についての是非を問う国民投票がそれである。

ポピュリズムは唯一の正しい政策的解決法が存在し、唯一の真正な人民意思が 存在するとしている。

既成政党や選挙制度全般に対する大衆の不信や不満の現れとも言える。

少数者の意見や対立者の意見を圧殺し民主主義政治に悪影響がある場合がある。

自分のみが人民を代表していると主張し行為を正当化する。

ポピュリストは反多元主義を正当化し信念に基づいて道徳化し組織されていない人民という観念に依拠する。

ポピュリズムと民主主義の違いは、民主主義は最大多数が代表に権限を与えることを可能にする。代表は交代が前提となっている。

ポピュリズムは人民がそう望んだからと言う理由で異議を唱えることはできない。同質的実体の存在が前提とされ、そのアイデンティーと理念は完全に代表され得る。



4 ポピュリズムの歴史

ポピュリズムは代表制民主主義のみからしか発生しない政治活動である。それゆえそれほど歴史は古くない。

1891年アメリカにおいて人民党が結党されたことがポピュリズムの嚆矢である。  その後ラテンアメリカにも広がった。

ドイツのナチズムとイタリアのファシズムもポピュリズム運動である。
しかしそれらに内包する人種主義、暴力の賛美、急進的指導者原理はポピュリズムの必然的要素ではない

近年 欧州の民主主義先進地域でポピュリズム政党の伸張が顕著であり、既成政党を批判する立場にある。


5 初めてポピュリズムがアメリカにおいて現れた経緯


南北戦争後のアメリカでは石油や鉄道などに巨大企業が出現し、市場で独占的な地位を獲得した。他方で地方労働者は社会不安と長時間労働を強いられ、労働運動は弾圧されていた。

一方農民たちは慢性的な農産物価格の下落で債務を抱えていた。また鉄道会社が一方的に設定する輸送運賃や倉庫料金の独占的なつり上げで農民は困窮した。

つまり、アメリカのポピュリズム運動は、独占企業を支配している資本家と、農民、職人、労働者間における対立に端を発している。

しかし農民達弱者の受け皿がなかった。そのうえ財閥が政治に介入し腐敗した金権政治が行われた。不正投票や贈賄は普通の事であり、暴力沙汰もある始末であった。そもそも共和党、民主党の二大政党は、権力の追求と略奪のために闘争している有様であった。

その結果1891年人民党(通称ポピュリズム党)が結党された。人民党は連邦上院議員の直接選挙や秘密投票の導入など民主主義的改革と、そして累進課税導入を求めた。

共和・民主の二大政党に対抗するこの第三政党の政治運動は、南部・中西部の小作農と都市部の労働者層、職人の支持を集めた。

具体的要求項目として、基本的生産手段である土地の私有を前提に、銀貨の無制限鋳造による貨幣の流通増大、鉄道・電信・電話の公有公営、企業の農地所有の制限、累進課税強化、上院議員の直接選挙、労働規制の強化、郵便貯金制度など、農民が商工業者との間で経済的均衡を享受することができるような政策を要求した。

しかし政治家や官僚への不信があるが、政治システム構成原理への信頼はあった。

アメリカのポピュリズムは下からの運動である。
一方ラテンアメリカで1930~1950に起きたポピュリズム運動は、アルゼンチンのペロン、ブラジルのヴァルガスに見られるように個人的カリスマ性に依存し、大衆迎合的政策で展開した上からの運動であった。



6 人民党の盛衰

1892年の大統領選挙では、人民党は農民運動のリーダーであり南北戦争での北軍の将軍だったジェイムズ・ウィーバーをたてた。

その結果 共和党・民主党の二大政党に不満を持つ層の支持を集めた。そして一定の成果を上げたことで第三党として存在を際立たせることになった。

4年後の1896年の大統領選挙では、民主党は西部の農民層を基盤とするウィリアム・ジェニングス・ブライアンを擁立した。彼は人民党の政策・主張に近い人物だったため人民党の執行部はブライアンを公認候補とすることを決定した。

しかしそれに反対する党員も多く、党内に分裂が生じた。結局、独自候補を立てられなかったことから以後存在感が薄まり、1908年には人民党は消滅した。つまり人民党の命運は17年であり短いものだった。



7 日本におけるポピュリズム


小泉元総理は、自らが自民党員でありながら「自民党をぶっ壊す」というセンセーショナルなキャッチフレーズで、自民党の金権体質、派閥支配を攻撃対象として提示することにより、無党派層と保守層を厚く巻き込むことに成功した。


8 トランプにおけるポピュリズム


2016年 第45代アメリカ大統領にトランプが選出された時、 人民がいだく以下の不満を当時の政権に対する攻撃目標として提示し RUST BELT(衰退して倒産工場の多い錆びた工業地帯) に住む主として貧しい白人労働者と、加えるに農家に訴え、貧困問題を解決するためにAMERICA FIRST (アメリカ自身の利益をまず考えるべきだ)というキャッチフレーズで示した。
そして当面において解決すべき問題点は以下の通りとした。

1 経済のグローバル化に伴い途上国の低賃金労働者の生み出す安い生産物を通して、自国の労働単価に対する下落圧力。

2 増大する所得格差。

3 移民増加による福祉支出の増加と労働賃金競争。

4 中国の経済発展によるアメリカの相対的地位の低下。

その改善のためトランプが示した具体的政策内容は以下の通りである。

1 アメリカの人口は2023年において、3億4000万人で、そのうち4000万人が南米からの不法移民である。移民増加を阻止し、福祉支出の増加と労働単価の下落圧力を抑止する。

2 経済のグローバル化で他国との競争に巻き込まれた結果による国内産業衰退を改善するため関税率を引き上げる。

3 そうすることによって、中国の経済発展に伴うアメリカの相対的地位の低下を阻止する。

つまり中国やインドの発展が著しく、かっての強いアメリカが追い抜かれ、その経済力を背景に保持していたアメリカの威信が崩れ落ちる瀬戸際に立たされたのである。

自国の産業を育成するために、2025年トランプは関税によって自国産業を守ろうとした。トランプは日本がアメリカに車を大量に輸出しているが、日本はアメリカ車を買わないと言っている。



9 ポピュリズムの長所

ポピュリズムは間接民主主義から生じるので、民主主義と断絶することは無い。
人民から著しく乖離してしまった間接民主主義を矯正するものとして役立つかもしれない。

民主主義体制下の少数集団は、自らの利害を有効に代表させることが出来ないが、ポピュリズムは国民投票という形で関与し、つまり直接民主主義的側面を持つ。

政治エリートや高学歴層などの特権層とは別の、無視されてきた人々の意見や不満を代弁する仕組みであり、人民の全体利益を代表すると考えられる。

職業政治家や官僚、利益団体によって民衆から隔てられた政治を正し、人々の声を直接政治に反映させ、つまり民衆の直接参加を通じてより良き政治を目指す試みとなりうる。

既存の社会的区別を超えて新しい政治的社会的まとまりの集合を生み出して拠って立つイデオロギーを与える。

ポピュリズム政党は既存の政党に危機感を与え改革を促す効果がある。

これまでの政治スタイルに変化をもたらして斬新な政治手法採用で、国民に幅広くアピールすることで何らかの成功を納め得る。

ポピュリズム政党は、必ずしもデモクラシーに悪影響を与えるわけではない。既成政党に危機感を与え改革を促す効果があり、むしろプラスかもしれない。


ポピュリズムは昔においては極右的、反民主的だったこともあるが、今はリベラルの守り手としての民主政治の通常の参加者である。


ポピュリズムにはいくつかの欠点があるにしても、前に述べたように人民から大きく乖離してしまった自由民主主義を矯正するものとして役立つかも知れない。 



10 ポピュリズムの欠点

民主主義は本来価値の多元性を認め、少数意見にも耳を傾けながら全体をまとめて行く対話と調整が重要と理解されている。政治とは本来妥協と調整の世界であるが、ポピュリストは自分たちのみが正当な代表と主張する。

民主主義は多数の要素によって成り立っており、多数決原理はその一つに過ぎない。
統治者は全国民の排他的代弁者ではなく、国民の統治者への反対も不道徳ではない。

しかしポピュリストは多元的価値の存在を認めない。ポピュリズムは、反エリート主義に加え反多元主義である。ポピュリズムは政治改革を目指す勢力が、自分達だけが人民を代表すると主張する。多様性の否定は特定の市民の自由且つ平等な地位を否定することと実質的には同じである。


ポピュリズムは同質的実体の存在が前提とされ、その理念は完全に代表されうるとする。
それゆえ少数の人民がそう望んだからという理由で異議を唱えることはできない。

雇用、移民政策、テロなど、その時点で社会が持つ限定的問題で結びつき、方向に一貫性が無いとされる。

ぎりぎりの過半数でもひとたび権力を握ると、後の有権者はすべて黙した多数とみなして自己の同調者に参入する。

投票による過半数を握った時点で、現行憲法を廃して、ポピュリズム政党が権力を維持するための排他的憲法を制定することがある。このあと述べるヒトラーの例がそれである。

反対者を民主主義の名において排斥する。部分が全体を僭称するとき、暴走を制御する内部規範が無力化され排外主義が人々を支配する。

民主主義は多数の要素を包含して成り立つものであり、多数決原理はその一つに過ぎない。統治者は全国民の排他的代弁者ではなく、統治者への反対も不道徳ではない。

行き過ぎたポピュリズムは少数者の意見や対立者の意見を圧殺することになり、民主主義政治に悪影響がある場合がある。

人民の意思を重視しすぎて、立憲主義の原則である権力分立、抑制と均衡を軽視することもある。

現代のポピュリズムは、リベラル、デモクラシーと言った現代デモクラシーの基本を承認し援用して排除の論理を正当化する

政権を握ったポピュリストは、腐敗した非道徳的エリートがいつもしていたような行動をすることがある。

選挙で選ばれた代表や投票の公式結果に対して「真の住民」を掲げて対抗する。

つまりポピュリズムが勝利を収めると、法的、制度的改変を行って、勝利の結果を永久化しファシズムに変移する場合がある。このあとで述べるヒトラーがそれである。

ポピュリズムの反多元主義は民主主義にとって真の脅威となることがある。

統治責任を放棄し、大衆に甘い政策を訴える大衆迎合主義に陥ることがある。



11 ヒットラーにおけるポピュリズムつい て


ナチスのヒトラーはポピュリズムの手法で国民をまとめた。ポピュリズムで勝利を納めた上で法的制度的改変を行って勝利の結果を永久化しファシズムに変容させた。

しかしヒトラーがポピュリズムの手法で合法的に政治にかかわったのは、1933年1月30日に首相に指名されるまでである。

その後は放火、殺人、暴力などの強引な犯罪行為によって独裁権力を握った。

ヒトラーは生国のオーストリア徴兵検査で身体虚弱として不合格になっている。

画家を目指して絵画学校を受験するが、2回受験していずれも不合格だった。自作の絵を売ってわずかな金を得ていたが、20歳の時、遂に浮浪者収容施設に入る始末だった。

そんな男がどのような経緯で国家権力を握り、ヨーロッパ社会を戦乱に陥れることになったのか興味深いので調べてみた。

ヒトラーは第2次世界大戦やホロコーストにより、少なくとも 5500万人の死に責任がある。





12 ヒトラーの出自と育った家庭環境


アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日 オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウという町で生まれた。その後大統領選挙に立候補するまでドイツ国籍ではなくオーストリア国籍である。

1903年に父親はヒトラーが14歳のとき65歳で亡くなり、母親は18歳の時47歳で亡くなった。

父親の名はアロイス・ヒトラーといって、1838年に私生児として生まれた。
アドルフが生まれる12年前、39歳の時に認知され、アロイスはヒトラー姓を名乗っている。

父親であるアロイスの人生は複雑で、3回結婚しアドルフ・ヒトラーは3番目の妻であるクララの子だった。アドルフ・ヒトラーは父親が52歳の時の子で、アロイスはそのほかに女を囲っており婚外子がいた。

アロイスは小学校卒業後、靴製造職人の徒弟となり一人前の職人にはなった。
しかし上昇志向があり17歳の時大蔵省守衛になって官吏の身分を獲得した後、最終的に税関勤務事務本官に昇進した。
これは小学校卒の学歴しかない者が到達しうる最高階級だった。 

父親のアロイスは暴君で口答えを許さず、時にはステッキや鞭でヒトラーを殴った。

母親のクララは家の中で笑顔を見せたことがなかったとされる。そのようなことはなかったと書いてある本もあるが、アドルフ・ヒトラーが良識と慈愛に満ちた家庭に育ったとは思えない。 

このような家庭環境の中でヒトラーは激しい憎悪の性格を持つ人間になったとされる。

スターリンが飲んだくれの父親から不当な暴力を受け、世間の人々を憎む根源となったことと似ている。

幼少年期の家庭が愛情に満ちた明るい家庭であれば、その人の一生に良い影響を与えることは良く知られている。

よい家庭で育てば、成人してから、たとえつらい人生に遭遇しても、前向きな姿勢で耐え生きて行くようである。


13 ヒトラーの性格

原点は、生い立ちで身に着いた「憎しみ」である。
当時ドイツに駐在していたフランス大使は、ヒトラーの性格について
「病的で狂人に準じる」としている。

ヒトラーがソシオパス(反社会性パーソナリティー障害)であったことは間違いない。

更にナルシスト(自己愛性パーソナリティー)をも兼ね備えていた。この両方を備える者は、治療法のない不治の障害であるとされる
 (エーリッヒ・フロム 独 1900~1980 精神分析学者)。

スターリンも同様としている。この種の障害を抱えている者は生涯にわたって狂気を増すとされている。

もっともスターリンはナチス党に将来性はないと予想していた。


14 アドルフ・ヒトラーの 青少年時時代


ヒトラーは高校を中退したが、15歳の頃に、南ドイツ出身の狂信的ドイツ国粋主義者の高校教師に感化されたとされる。

ヒトラーには普通の人より絵の才能があったようで、若いころは画家を目指した。しかしプロになるほどの才能は無かった。

絵画学校に2度受験し、作品を提出したがいずれも落ちている。2度目に落ちたとき納得がゆかず、直接試験委員の教授のところに行って落ちた理由を尋ねた。それに対し教授は
「君は画家より建築家のほうが向いている」
と言った。提出作品はいずれも建築物だけを描き、人物画が無かったためである。残っている作品は建築画が殆どで、僅かに残された人物画は、ぎこちなく拙いとされている。

建築学に関する本も読み漁ったようだが、彼の描いた建築は外観のみを考えコストに配慮が無かったため、実社会に受け入れられないであろうと言われた。

18歳の時母親が亡くなり、自ら生計を立てねばならなくなり困窮した。

ウィーンでは自ら描いた絵を売ってわずかな金を得ていたが、20歳の時ついに浮浪者収容施設に入った。

このヒトラーが18~24歳のウィーン時代に、社会に対するすべてに憎しみの感情を育成したとされる。それは自分の不幸を他人のせいにするという性格をもたらした。
憎しみの対象は次の2点であった。

1 労働者階級に支配される社会主義者。

2 ユダヤ人への憎しみ。マルクス主義とユダヤ人が結託して世界の破壊をもくろんでいるとした。

当時ユダヤ人はドイツの人口の1%以下で、ドイツ社会に大きな影響力は無かった。架空の危機を煽り立て、攻撃の対象とするのはポピュリストのよくとる手段である。

そして このウィーン時代に民主主義を軽蔑するようになったとされる。

のちの「わが闘争」の中で
「大衆を突き動かすものは論理ではなく狂信とヒステリーである」
と書いている。民主主義に対する侮蔑をヒトラーは持っていた。
「ドイツが最も必要としているのは、強い独裁者であり民主主義ではない」とも言っている。

第一次世界大戦の前にヒトラーは母国のオーストリア・ハンガリー帝国の徴兵検査を受けたが、虚弱と判定されて不合格だった。

その後南ドイツの大国の一つであるバイエルンの陸軍に志願兵として入った。

軍隊に入ったのは生計に困り、とりあえず衣食住が満たされる方途を求めたためと考えられる。


15 ヒトラーが世に出る端緒


ヒトラーが、多くの人をまとめる能力を備えていたとは言えない。

バイエルン陸軍においては、秀でた戦功をあげ、普通では貰えないような勲章をヒトラーは受けている。

しかし上等兵になったが、その後4年経っても昇進することは無かった。
これは殆ど例が無いことだった。その理由について直属の上官はヒトラーを評して、
「精神が安定していないばかりでなく指導力に欠けており、部下を持つことになる伍長以上の階級には相応しくない」と証言している。

兵士仲間に友達はおらず、それどころかヒトラーを嫌っている者が多かった。

この軍隊時代に、ヒトラーは上官の指示で
「政治思想啓発講習会」に参加し、そこで反ユダヤ主義者、ドイツ民族至上主義者、反マルクス主義の思想を深めた。そしてこの時にヒトラーには演説の才能があることを上官は知った。ヒトラー自身もそのような才能が自分にあるとは知らなかったようである。

彼が演説を始めると周囲が耳を傾け彼に同調するように引き込む魔力のような力があった。そして何時間でもしゃべり続けることができた。

但し
「彼は側近中の側近に対してさえ正直ではなかった。・・・私見だが何もかも虚偽なので、自分でも嘘と真実の区別がつかなくなっていたのではないか」
とヒトラー内閣の財務相を務めた者が言っている
(ベンジャミン・カーター・へット著 ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか 73頁)。

つまり演説内容に嘘が多く信頼できないと側近が言っていた。

持続性を持つポピュリズム政党の 初代指導者は、弁舌巧みでアピール力に長けている能力が必要とされており、ヒトラーはまさにその資質を備えていたのである。

更に彼は自分を理想的な人間に見せる演技力もあった。そして彼の堂々たる声も効果的であった。

1919年夏30歳の時、上官であるマイエル大尉の命令で「
ドイツ労働者党」という名の党の集会に出席した。

ドイツ労働者党は1919年に結成され、その思想は極右民族主義的性格を持っていたが、政府に反対するだけが目的で、政策があったわけではない。

ヒトラーは入党し、その演説能力がドイツ労働者党党首に注目されて、たちまち委員に推された。

ドイツ労働者党は吹けば飛ぶような小党で、党の最初の集会参加者は10人だった。ヒトラーが出席した6回目の集会参加者は43人である。

1919年秋にビアホールで開かれたドイツ労働者党集会には131人が集まり、その席でヒトラーは人生で初めて一般聴衆の前で演説を行った。

ところが演説を聴いていた聴衆は激烈な反応を示し盛んな拍手を送ったのである。
ヒトラーには紛れもなく演説の才能があることが分かった瞬間だった。その後の集会では主要演説者になっている。

ヒトラーはその後この党を2年も経たないうちに大政党に発展させた。

つまりヒトラーが世に出るきっかけは、彼に並外れた演説の才能があったこと、そしてそれを生かせる組織に属したことである。

演説能力があっても、組織に属さず路傍で演説をおこなっているだけでは、うるさいと怒鳴られるか、しまいには殴られる結果になる。

ドイツ労働者党は1920年2月24日の大集会の際に「
国民社会主義ドイツ労働者党」と党名を変更している。略称はNSDAPであり、部外者からは「ナチス」と呼ばれることになった。この党は民族主義と反ユダヤ主義が党是であった。

その後の集会ではヒトラーが最も数多く演説し、有名な宣伝家として世に知られるようになった。
もともとドイツ国民は指導者へ盲従をするように訓練され、その特性があるとされていた
(ルイス・スナイダー著 アドルフヒトラー 59頁)。


16 ヒトラーが権力を握る直前のドイツの政情

1919年5月7日にドイツに押しつけられた
ベルサイユ条約においては、第一次世界大戦の戦争責任はすべてドイツにあるとされ、海外領土は没収、アルザス・ロレーヌ、ポーランド回廊などの割譲、軍備の制限、そして1320億マルク(現在の貨幣価値でおよそ200兆円)の賠償金支払い義務をドイツに翌年課した。

ベルサイユ条約締結の会議にはドイツは出席しておらず一方的な条約だった。、ドイツは最初反駁したが、戦勝国側の武力の前に結局受け入れざるを得なかった。

その結果ドイツ経済は著しいインフレと失業者増大に見舞われた。ベルサイユ条約は、戦後のドイツ国家経済を危殆に追い込み、ナチス出現の原因となった。

この時の教訓でGHQは第2次大戦後、日本に過大な賠償金を要求しなかったと言われている。

戦後ドイツのインフレの原因は、賠償金支払いと戦費を国債発行で賄っていたためである。


17 ヒトラーが権力を握った経緯

年表を示すと以下のとおりである。

1918 .8. 18 第一次世界大戦がドイツ敗北       として終わった。

1918. 11. 3 ドイツ革命勃発

1918.11.9 ドイツ革命によってドイツ帝国  は倒れワイマル共和国が誕生した。


1919.8.14 ワイマル憲法施行

1919.9.16 ヒトラーはドイツ労働者党入党

1920.2.20 ドイツ労働者党は党名を国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)へ       変更

1921.7.29 ヒトラーはナチ党 党首になる

1925年   ヒンデンブルグがワイマル共和国大統領になる  

1932、4、10、 ヒンデンブルグは大統領に再選される

1932.  ナチス党が国会第一党になる

1933年1月30日 ヒトラーは首相になる

1933.2.27 国会議事堂炎上

1933.2.28  国民と国家を防衛するための      大統領緊急令 公布

1933.3.5  国会総選挙でナチ党と国家人      民党で過半数を得る

1933.3.23 授権法成立

1934・8・2 ヒンデンブルグ大統領死去

1934.8.2  ヒトラーはドイツ国総統になる

1939.9.1  ドイツがポーランドに侵入

1939.9.3  英仏が独に宣戦布告し、
       第2次世界大戦が始まる

1945.4.30 ヒトラー自殺

ナチス党が国会の第一党になるまでは、ヒトラーの卓越した演説能力に負うところが大きく、そしてその活動は合法的だった。

しかしヒトラーが首相に任命されてから先は、放火、殺人、暴力という犯罪行為で強引に独裁権力を得た。

ワイマル共和国の新憲法であるワイマル憲法は、それまでのどの国の憲法より民主的憲法と称賛されていた。

しかしワイマール憲法は第48条に、扱い次第で欠陥があると当時から指摘されており、のちにヒトラーによって利用されることになる。つまり大統領権限が強すぎて、民主主義を脅かす虞を最初から指摘されていたのである。


ワイマール憲法48条(緊急事態条項)
ドイツ国において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはその虞れがあるときは、ドイツ国大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。

この目的のために大統領は一時的に、第114条「身体の自由」、115条「住居の不可侵」、117条「通信の秘密」、118条「言論の自由」、第123条「集会の自由」、第124条「結社の自由」、第153条「財産権の保障」などに定められている基本権の全部または一部を停止することができる。


但し現代において憲法に国家緊急に関する規定が無い国は、アメリカ、カナダ、イギリス、日本など少数である。
2013年時点で、フランス・ドイツ・イタリア・スイス・スペイン・韓国など世界の93.2%の憲法に何らかの緊急事態条項が含まれている。

つまり 緊急事態条項自体が問題なのではなく、適用される場合の法整備に欠陥があったことと、当時の大統領個人に問題があったためである。48条を発動することになった発端は、ナチスの自演による議事堂放火という犯罪行為である。


1932年 4月 10日の大統領選挙はヒンデンブルグ、ヒトラー、テールマン(共産党員)の3人によって争われ、ヒンデンブルグが再選した。この時ヒンデンブルグは 85歳である。

ヒンデンブルグは再選される少し前に意識不明で倒れた病歴があり、出馬は無理と考えられていたが、ヒンデンブルクが不出馬の場合ヒトラーが大統領に当選する公算が大であったため、周囲が出馬に踏み切らせたのである。人材不足であった。

なおこの時までヒトラーはドイツ国籍ではなくオーストリア国籍のままであった。

ワイマル憲法下の大統領は、国民の直接選挙で選ばれる国家元首である。そして大統領の権限は以下の通りである。

1 首相の任命権
2 国会解散権
2 国軍の統帥権
4 憲法停止の非常大権

1933年1月30日ヒトラーは44歳で首相になり国会を解散した。

ヒトラーの首相就任は国民多数の意思表示ではなく、憲法に規定があるようにヒンデンブルグ大統領の任命である。ヒンデンブルグは共和国破壊を公然と主張するナチスとヒトラーを嫌っていた。

それでもヒトラーを首相に任命したのは、ヒンデンブルグ側近のパーペンに動かされたためである。それにヒトラーは過半数を握ったわけではないが最大党派の党首なので、首相に任命されるのは自然の流れともいえる。

そもそもヒンデンブルグはヒトラーを軽侮していた。ヒトラーは出自が低く教育も受けていないばかりか、指導力不足で軍隊では上等兵どまりだった。

一方ヒンデンブルグは貴族の出身で陸軍元帥の経歴があり、ヒトラーを「ボヘミヤの上等兵」と呼び軽蔑していた。それに政治経験が乏しい若いヒトラーは数か月で音を上げ、長く首相の地位にとどまることは出来まいと軽く見て、任命しても重大な問題には至らないと判断したのである。

それは当時の政治家、メディアの共通した見解で、ヒトラー首相の命運は、せいぜい3か月と考えられていた。しかし当時ヒトラーは最大党派のナチス党の党首であり首相に任命せざるを得なかったと言うこともある。

そのような理由で、傀儡として一時的に利用しようとする意図があり、ヒンデンブルグはヒトラーを首相に任命した。

ヒトラーが独裁権力を掌握する重大な転換点になったのは、 ワイマール憲法48条の緊急事態条項を基に国民と国家を防衛するための大統領緊急令(戒厳令)をヒデンブルグ大統領に出させた時である。

おそらくヒンデンブルグ自身が老耄であったことと、ヒトラーの擁する数の圧力に負けたのであろう。

そこに至るまでヒトラーはその並はずれた演説能力と演技力を駆使してナチス党の党首になっていた。ナチス党はその時点で最大党派になっている。

そしてドイツ国民が苦しんでいる失業と経済苦解決を重要な争点として提示し、弁舌で煽り立て、所謂ポピュリズムの手法がとられた。ユダヤ人排斥と騒ぎ始めたのはその後である。

ヒトラーは非常事態を人為的に創出するために、1933年2月27日 国会議事堂にナチが放火し、その罪を政敵の共産主義者になすりつけた。

一人の男が犯人として逮捕されたが、単独犯ではとうてい実行出来ないと現場を検証した者達が判断している。そしてナチが真犯人と確信されていた。しかし数百万のドイツ人は、火災は共産主義者の暴動の発端と信じた。

放火事件翌日の2月28日には、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領を説得し、ワイマール憲法48条の緊急事態条項を基に国民と国家を防衛するための
大統領緊急令(戒厳令)を公布させ、市民の諸権利である言論、報道、集会の自由は停止された。

個人の自由、集会結社の自由が制限されるばかりでなく、逮捕、拘束された個人は、ヒトラーの判断で恣意的に懲役や死刑にされた。

ヒンデンブルグ大統領の大統領緊急令(戒厳令)公布は、ワイマル憲法に依拠しており憲法の欠陥と言える。

但し大統領の命令はすべて首相または主務大臣の副署を必要とするから、憲法施行当初は大統領が権力を乱用できるとは考えていない者が多かった。

この戒厳令は、その後に続くナチ独裁の端緒となった。

ヒンデンブルグ大統領は憲法48条の緊急事態条項を発動させたことについて重大な責任がある。

その後もワイマル憲法48条を根拠にした法令が次々と出された。1934年1月にはライヒの改造に関する法律(ライヒ新構成法)が制定され、その4条によって憲法改正もライヒ政府に委ねられることとなったため、ワイマル憲法は形骸化し実質的な意味を失うこととなった。ライヒとは「ドイツ国家」の意味がある。

この放火事件を境に、ワイマル共和国は終焉した。

ワイマール憲法下のドイツは、直接選挙で選ばれる大統領が首相の任命権をもつなど強大な権限が与えられていたが、対する国会も国民投票を通して大統領を罷免できる権限をもっていた。つまり国民と国会を握った首相が絶大な権力を握ることになる。

1933年3月5日の総選挙で、ナチは196から288に議席を増やした。これは友党のドイツ国民党と合わせて52%と過半数に達しておりヒトラーは政権を握った。

しかしナチ党は第1党にはなったが、議席の過半数に達していたわけではなかった。当時のドイツには25以上の小政党が乱立しどれもが単体で過半数を占められなかった。

1933年3月24日
全権賦与法(授権法)を可決させ、ナチス独裁が確定した。

授権法の内容は、以下の通りである。


ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。

ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものに関わるものでない限り、憲法に違反することができる。

ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。

ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法第68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。

ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。

第一条は、立法権を国会に代わって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである。

第二条は、政府立法が憲法に優越し得る(違背し得る)ことを定めたものである。

第三条は、大統領に代わって首相(アドルフ・ヒトラー)にも法令認証権があるとしている。

第四条は、外国との条約を成立させる際、議会の承認が必要ではないことを確認したものである。

またこの法律には、国会に対する通告義務、国会による政府措置の破棄権限の条項が存在しないなど、異質な立法であり、新たな憲法体制への道を開く、暫定憲法ともよべる法律であった。


以上に示したように内閣に対し無制限の立法権を賦与し、さらに大統領の諸権限は縮少されないと規定した。

この結果議会の立法権は事実上有名無実なものとなり、事実上立法権はヒトラー個人にゆだねられた。大統領制は残っていたが議会政治は授権法で否定され、ワイマル憲法は事実上廃止となった。

授権法成立には憲法改正と同じ手続き(国会議員の3分の2の出席と出席者の3分の2の賛成)が必要だった。

議会政治の廃止を議会自身が議決するというようなことがなぜ可能だったのかと言えば、 戒厳令を公布したので、全ブルジョワ政党は解散し、6月に社会民主党、7月に共産党が禁止され、81名の共産党代議士と、多数の社会民主党の代議士が正当な理由もなく逮捕されており出席できなかったためである。

社会民主党が授権法に反対する唯一の政党だったが、登院する道にはSA(ナチ党突撃隊)隊員が林立し、罵声を浴びせるばかりか拘束する始末だった。それゆえ社会民主党議員は反対投票するどころか自分の議席にたどり着くこともできなかった。

拘束に抗議すると、
「拘束された紳士諸君は拘禁によって避難所を与えられたのであり、彼らからその場所を奪うことは適切ではない」
などと非常識で理不尽な暴言を吐いた。

そればかりでなくナチ党議員は社会民主党議員に対し、
「授権法反対の主張をすれば、ほどなく命を失うであろう」
と言い渡した。

1933年3月23日 授権法は441対94の賛成投票によって成立した。82%の賛成票である。

ポピュリズム政党が過半数を手にすれば、民主主義的プロセスを破却して、自分たちに都合の良い新しい憲法を制定できるという危惧が現実のものになったのである。

1933年7月にヒトラー・ナチス政権は「
国民投票法」を成立させたが,それは国民意志を問うためではなく,権力者の地位や政策を国民意志の名目で強化するためにあった。

こうして1933年に正統な代表制議会はあらゆる権力をヒトラーに手渡した。

かねてSAと呼ばれる「ナチ党突撃隊」があって、それはナチスの集会において反対者を叩き出す用心棒的役割だった。しかし時の経過とともにSAは勢力を増し、300万人にもなって、軍人出身のレームという名の者が指揮を執った。

そして1934年初めには多くの突撃隊員が、ヒトラー政権に不平を言っていた。

ヒトラーはSAという組織に危険を感じ、1934年6月30日レームをクーデターを起こす気が有るというデマをでっちあげて逮捕し殺した。
さらにSA幹部 150名も殺した。そしてSAに代わるものとしてSSという名の親衛隊を創設した。

この結果ヒトラーは自分の党のみならず、全ドイツの支配者になった。

1934年8月2日 ヒンデンブルグ大統領は87歳で病没した。

ヒトラーはすぐさま大統領権限を引き継いだ。そしてヒトラーは大統領と首相を兼ねた「総統」という称号を自らに与え、軍人と官吏は全員ヒトラー個人に忠誠を誓うことを強制した。

ドイツ中の国民は子供まで含め「ハイル ヒトラー」(ヒトラー万歳)と言わされた。

1935年3月16日 ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄して条約を反故にした。

ドイツ人の中にはナチス政権に反対する者もいたが、ヒトラーを批判する者は連行され、殺されるか拷問にかけられた。

不満分子の摘発は国民の秘密警察への密告だった。子供が親を密告し刑務所へ送った例もある。

18 ヒトラーがポピュリストとして掲げた政策

敗戦後ヴェルサイユ条約による戦後賠償はドイツにインフレと失業という形で経済苦境をもたらした。

それに対処する政策は以下の通りである。これらはポピュリズムの手法を使う際における人民の共通の不満として摘示し、ポピュリズムとして扇動する材料として使われた。

1 失業者救済
ヒトラーが権力を握ったとき、ドイツ国内の公式失業者は600万人であり、未登録や不完全就業者を合計すると1100万人に及んだ。 ヒトラーによる政策の結果、1936年までに完全雇用を達成した。

2 ユダヤ人撲滅
反ユダヤ主義のナチ党にとって、ユダヤ人であることと宗教は関係が無かった。
ユダヤ人と定義されれば改宗しても定義は覆らなかった。そしてどれほど長くドイツに在住であっても、第一次大戦で兵として血を流し戦功があろうがドイツ国民になれなかった。

当初1932年までは失業問題解決が優先され、ユダヤ人に対しては主たる攻撃目標ではなかった。

1933年2月に武装SA(ナチ党突撃隊)は法律を完全に無視し、密告などを根拠にユダヤ人を自儘に逮捕し拘束した。

1933年4月「
専門的官職再興法」が制定され、ユダヤ人とマルクス主義者排除のために、ユダヤ人裁判官、医師、弁護士、警察官、大学教授、教師を官職から追放した。排除はユダヤ企業や芸術家、メディアにまで及んだ。

そしてSA(ナチ党突撃隊)は裁判所に乱入し、ユダヤ人裁判官や弁護士を追いかけ回して殴りつけ傷害を与えた。警官は傍観するのみだった。



19 ユダヤ人が攻撃目標にされた理由

ユダヤ教に帰依している人々をユダヤ人と呼ぶが、キリストを十字架にかけて殺したのはユダヤ人とされており、キリスト教が広く布教されていた欧州の人々は、ユダヤ人に好感を持っていなかった。

ヒトラーは人種の純潔が最も重要と主張していた。ドイツ人が属するアーリア人種が最も優れており文化的創造者であるとした。

ユダヤ人は非アーリア人種であり、彼らは文化的破壊者であり世界支配を企てる反逆者であると主張した。

1933年4月7日 すべての非アーリア人を公職から追放する法律が制定された。

ユダヤ人とはユダヤ教を信仰している人々である。そして親がユダヤ教信者の子供もユダヤ人とされる。人種とは関係なく外見とも関係ない。
同じくアーリア人種も存在しない。同一言語グループに属する人々を指すに過ぎない。

ヒトラーがユダヤ人を憎みドイツからユダヤ人一掃を望んだ理由は以下の通りである。

1 ユダヤ人はドイツ人を背後から刺し、第一次大戦を敗北に陥らせた裏切り者である。

2 ユダヤ人は共産主義者でもある。

3 ユダヤ人は世界支配を企んでいる

4 ユダヤ人は人類の敵であり、下劣そのものであり、我々ドイツ人の全ての苦しみの原因である。
・・・・・などと主張した。

そのほかにも以下の主張があった。

1 ユダヤ人は高利をとって他人を破滅させたり、破産させたりした罪で罰せられる人間の30~40%であった
(ルイス・スナイダー著 アドルフ・ヒトラー 140頁)。

2 未熟練労働者のユダヤ人が労働市場に参入し、ドイツ勤労者の賃金水準を引き下げている。ヒトラーの身辺にはいかがわしいユダヤ人がいて、ドイツ人の貧困者と地位職業を奪い合っていた。

3 一方成功したユダヤ人は法律家、医師、ジャーナリストに多く、その成功に対し一般ドイツ人の反感があった。

4 キリスト教世界において、強固で有能な異端分子であるユダヤ人に対し、キリスト教会側の反感があった。
  
しかしそもそもキリストは、両親がユダヤ教信者なのでユダヤ人である。そしてキリスト教の教義もユダヤ教に由来しているから、ユダヤ教とキリスト教は親子の関係のはずである。

ユダヤ人排斥の理由は、ヒトラーの書簡中にも書かれている。それは

1 計画的な破壊活動を行っている。

2 個人間の交際において不愉快な感じがある。

3 金銭を得るために手段を択ばない。

との印象があるとした。

しかし当時のユダヤ人はドイツ国民の1%以下で、社会を動かすほどの勢力は無かった。架空の危機を煽り立て人民に攻撃目標として提示することは、ポピュリズムのとる普遍的手段である。
 
                                                    
20 当時のドイツ国民が持っていた感情

ナチの反ユダヤ行動に対し、全員ではないが一般ドイツ人は放任した。ヒトラーはドイツ国民の支持と協力なしには無力だったわけだが、当時のドイツ一般国民は、ナチが政治犯と烙印を押した者達が弾圧されることを明らかに支持した
(ロバート・ジェラテリー著 ヒトラーを支持したドイツ国民 308頁)。

当時のドイツ国民はワイマール体制を、戦争の敗北、屈辱の講和、経済混乱、社会の無秩序をもたらしたとして嫌っていた。

ドイツ国民は第一次世界大戦前の日々に憧れ、第2次大戦中でも国民はヒトラーを支持していた者もいた。もっともメディアは統制下にあり、国民に真実を伝えなかったということもある。
しかし全体としてはドイツ人はその多くが満足していた。

大実業家達も共産主義に反対していたヒトラーを、自分たちに利すると考え支持した。                                      
当時のドイツ人は、指導者へ盲従するように訓練され、それが特質となっていたとされる
(ルイススナイダー著 アドルフヒトラー 59頁)

21 ヒトラーの終焉

ヒトラーは1945年4月30日、56歳の時、戦況が最悪で改善の見込みがなくなったことを悟り自殺した。

その死後、当時のドイツ人の中には、ヒトラーに対し庶民に福祉を与えてくれた人物として、懐かしく思い出す国民も居た事は事実である。


22 ポピュリズムに対処する方法

ポピュリズムは多数の有権者を擁する代表制民主主義の正当な手続きで現れるので、ポピュリズムに欠陥があるとしても、それに対抗する有効な手立ては無い。

それゆえ確実な対処法は無いが、僅かな対処法は無いわけではない。それは以下のとおりである。

1 ポピュリストに本質的な議論を求める。そうすれば、彼らが問題点について多くを語るが、自ら適切な解決策を提示出来ないことが露呈する。

2 政府がどのように行動し、なぜ特定の決定がなされるのかを、市民が見て理解する機会が与えられるように透明性を高める。

3 有権者と選任された者との対話を欠かさない。


欧州統合(EU)は人民主権を抑制する包括的試みの一つと言える。EUにおいては官僚と政治家による調整型の政治が優位に立つ。

無視したり攻撃したりすると、ポピュリストはそれを利用し被害者の立場を装い世間に広く告知することによって、彼らの立場をさらに強固にすることになる。

新党の勝利が難しい小選挙区制を導入すると、ポピュリズム政党に不利になる傾向がある。

ポピュリストに協力する可能性のある保守主義者を監視し続け説得し、ポピュリストと協働させないようにする。

ポピュリズム支持者が不正の犠牲者であるなら、政府や政党にその不正を正すように働きかける。

結局個々人が歴史を学び統治体制に関する知識を増やし、世間の動静に目を向けて、徒に群衆に付和雷同しないことが重要である。

国民が情報を得る手段は、ついこの前までは新聞、ラジオ、TVの一方通行での受動的媒体のみだった。ヒトラーが用いた情報伝達手段は、主としてラジオと映画である。

TVは新聞社の傘下に入っている所が多い。新聞の記事の取捨選択はデスクの意向に委ねられており、必ずしも国民に必要な情報の全てが開陳されるわけではない。

さらに全体主義国家ではメディアは完全に政府の統制を受ける。かっての大戦中の日本、そしてヒトラー政権下のメディアは統制され、国民は戦争の劣勢を最後まで知らされなかった。

新しく正確な情報を得ることは、判断する際に最も重要な要諦である。最近はインターネットが爆発的に普及している。ネットは新聞、TVとは異なり、国民の個々人が発信できるという双方向性がある。

ネットに書かれた内容は虚偽も多いが、現場の人間しか知りえない情報も流れている。ネットにおいては国民は情報の取捨選択が必要である。最近はネットが選挙に与える影響が多大になっており、その対応が重要となっている。

但し近年インターネットは専制国家において特定の話題について遮断することが行われている。 

欠点のない統治体制は無い。

プラトン(ギリシャ 427BC~347BC) が提唱したように、哲人政治が理念として最善であるが、それは専横と腐敗が隣り合わせである。民主主義は最善の統治体制ではなく、あくまでも次善である。

勝者総取りの傾向を示す国においては、民主主義の危険を封じるためにリベラリズムを強化する必要がある。一つの社会に複数の中心を置き、権力を分散させ特定の集団が覇権を握らないように配慮することも大事である。

リベラリズム(liberalism) は自由主義と訳される。
個人の自発性を優先し、多元主義のもと、国家や社会制度は個人の自由を保障し、資本主義経済と議会制民主主義を軸とする考えである。



23 結論 

政治が独裁権力者に乗っ取られ、独裁者がそれを維持するための法律を次々と施行する段階までに達すると、国民の側からは阻止する手立ては無い。

反対者は密告によってすべて投獄されるか死刑になるからである。 独裁者に対して政治革命を起こすにしても、大勢の同志のうちから密告者が出る可能性が多分にあるし、スパイが入り込む可能性がある。

但しヒトラーはユダヤ人にとっては地獄だったが、当時のドイツ国民は一部であるにしても概ね満足していたことは事実である。

独裁権力者に対しては、萌芽の段階で阻止しないと打つ手はなくなる。

ヒトラーがヒンデンブルグから首相に任命された段階までは、ポピュリズムを駆使したが合法的であった。

首相に任命された後、独裁権力を握った経緯は、まず議事堂に放火し非常事態を人為的に作り出して憲法48条を根拠に戒厳令を布告したことが総ての端緒である。

その後戒厳令を根拠に授権法を制定し、それが排他的独裁権力の樹立を決定した。
敵対勢力はヒトラー個人の恣意的判断で逮捕され死刑となった。

ヒトラーが独裁者になれた元凶はワイマール憲法48条だった。この48条の規定が無ければヒトラーの放埓な行動は抑止出来たかもしれない。

但し現代においてワイマール憲法48条の「国家緊急に関する規定」が無い国は、アメリカ、カナダ、イギリス、日本など少数である。

つまり国家緊急に関する規定そのものが悪いわけではなく、運用過程に問題があったのである。ヒンデンブルグには大統領として憲法48条の適用に署名し、戒厳令を出したことに重大な責任がある。

そもそも85歳と高齢で、少し前に倒れて意識不明になったヒンデンブルグのような人物に大統領職を任せたことが間違っている。人材が居なかったのであろう。

結論としては、個々人が歴史と思想を学び統治体制のあるべき姿を心に描いて、周囲に付和雷同することなく独自の判断を堅持することが重要と思う。      完 

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参考文献

ポピュリズムとは何か 
      水島治郎  中公新書

ポピュリズムとは何か
      
  ヤンヴェルナーミュラー  岩波書店

異端の時代 森本あんり
  岩波新書

日本型ポピュリズム  大嶽秀夫  中公新書


ポピュリズムを考える 吉田徹 NHKブックス

現代世界の政治体制   青木教養選書

アドルフヒトラー  
  ルイススナイダー 角川文庫

ワイマル共和国  林健太郎  中公新書

なぜヒトラーを阻止できなかったのか
       Eマティアス   岩波現代選書



ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか
ベンジャミン・カーター・へット  亜紀書房


ヒトラーを支持したドイツ国民      
    ロバート・ジェラテリー   みすず書房


アドルフヒトラー  村瀬興雄  中公新書

危険人物をリーダーに選ばないためにできること
     ビル・エディ    プレジデント社